歴史と異文化理解A

 

調査地/搦東・搦西

調査者/渋谷貴之、津田吉郎

 

<搦東>

・お話をしてくださった人(生年月日)

中島勤さん (昭和6年)

中島正博さん (昭和35年)

中尾治雄さん (昭和7年)

 

 今回、搦東については上記の3人にお世話になったわけだが、まず、しこ名については地図(佐賀県立図書館所蔵)に記してあるとおりである。

 

 次に水路に関してだが、これは地図に示してある嘉瀬川から引水したしんすけ水道に依存しているそうである。この用水は搦東の単独の水利である。

水に関してということで1994年の水不足の時のお話を聞いたが、この村でも相当影響を受けたと続々嘆いておられた。特別にやった水対策としてあげていくと、水を利用できるのが3日に1日(この日をみずといびという)の朝7:00~7:00に制限したということである。それ以外は使わないように交代制で見張りをつけたそうである。

 

村の範囲は地図に記してある通りである。

 

次に、村の共有の山林があったのか聞いてみたが、搦東にはないそうである。

 

 村の耕地についてだが、圃場整備以前からこの村一帯については場所によって米が良くとれたりするような所はないそうであるが、あまりとれない田は地図上のしこ名でいうと「つつば」という地域である。つまり、裏作ができない田(湿田)に「つつば」一帯がなっているということである。

 

 そして、肥料についてだが、戦前は窒素、リン酸、カリを自分達でまぜていたそうである。 なお、戦争中はいわしを使っていたそうである。

 戦前は1反当たり、78俵ぐらい取れていたそうである。最後に村の姿の変化についてだが、だんだん良好な状況に向かっているそうだ。

 これで搦東の調査の報告を終わります。

 

 

<搦西>

・お話をうかがった人(生年月日)

高原高義さん (明治43年生まれ)

古賀秀隆さん (昭和27年生まれ)

 

以上の2名にお世話になったわけだが、特に87才の高原さんは昔の事を詳細に語ってくれて、大変、有意義な調査となった。

 しこ名については地図に記してあるとおりです。

 それと、今回調査した範囲も図に示してあるとおりです。

 

・村の水利のあり方

 昔は土地の高低差がある(北の方が高くて、南の方が低い)ため北の方から流れてくる水をため池をつくって、そこに水をためていたのだろうが、自分達で水の管理をしようということになってダムができあがり、現在もそこのダムに水を依存しているとのことだ。

 また、この地はもともとヘドロの多い所で、干拓を行っても、排水が悪かったのだが、現在は田の中にコルゲート管というパイプをうめこみ、排水をよくする工夫がなされているということである。

 

・村の共有の山林は、ないそうである

 

1994年の水不足の時の特別な水対策としてはみんなで公民館に集まって徹底的に話し合いを重ねて悩み上げたすえに、分水担当者を数人に割り当て、とにかく水が必要な田を見極めて、そこから優先的に水を入れるという方法をとったそうだが、相当苦労したとおっしゃっていた。

 また、この地域は24年ほど前に水害があって、大きな被害をうけたらしい。もし、おととしのような水不足が30年前に起こっていたら、と質問したら、頑張ってもたぶん駄目であっただろうとおっしゃっていた。

 

・戦前の肥料

 窒素、リン酸、カリを自分達で混ぜたものと牛ふんを使用していたところがある。

 最近では、有機肥料よりも堆肥の方が長持ちすると言うことで、どんどん利用度が増えているということである。

 

・裏作できない地域

 ながさとがらみつねやすがらみの両地域がクリークがないために裏作ができないらしい。

 

1反当たり…89俵ぐらい

 

・今後の日本農業について伺ってみると、暗い顔になって大きくわけて3つの問題点を言っておられた。

@     過疎化のため若者がいなくなり、後継者の心配。

A     現在、残っている人達も、兼業農家への傾向が強くなってきており、専業農家の人達を強く求めていた。

B     外国米(特にアメリカ米)の輸入への恐れ。

以上で搦西の調査報告を終わります。

 

最後に

今回、2軒の家を訪問したわけだが、両軒とも厚遇してくれ、堅苦しくなることなく、リラックスしてお話を伺うことができて、とても感謝している。



戻る