現地調査レポート/佐賀市久保田町/金丸 <調査者> 松田麻理 溝口史子 <村の水利について> 嘉瀬川の上流から農業用水を引き入れており、井樋は、上流にある水取井樋(みっといび)から取り入れている。(昔は干満によって水が流れていた。) その用水は、久保田町全体にいきわたっている。ただし排水(※)については三日月町の水が流れてきている。(※地図左下@A樋門より福所江川へ主に排水/地図は佐賀県立図書館所蔵) 特別な水利慣行はなく、水不足のときのみ、樋関(ひかん)の調節を行う。 昔から水に恵まれていたため、水争いはなかったが、逆に水害が起こりやすかった(特にひどかったものは昭和24年の24水(にじゅうよんすい)と呼ばれる水害) クリークのごみ上げは、冬〜春(3月)にかけて、定期的に堀を決めて行われる。底にたまっている汚泥は、肥料として、その堀の両脇の田に入れられる。ごみ上げは、現在は機械で行われる。 また、年2回(4/29,7/20~8/10の間)水草を上げる。その水草はそのまま堀の両側に放置される。 おととしの水不足の際は、久保田町の三地区(上、中、下地区:地図参照)に、日ごとに水を配分した。犠牲田は作らなかった。 <村の耕地> だいたいの乾田で、水に恵まれているため、どの田も良田であった。(もともと嘉瀬川が流れていた地域の田は、砂地であったため、養分のもちが悪く、秋落田と呼ばれていた。秋落田とは、秋に稲穂はつくが、実らない田のことをいう。) 昔は、豊作時1反当たり10俵前後で、不作(台風・水害の時)時は、5俵程度の収穫であった。(昔の1反は、現在いわれる1反のように正確ではなかった。) 戦前は、肥料として、汚泥、馬の堆肥、わら、生ごみ(庭の穴の中に一度捨てて、発酵させたもの)、単独の化学肥料(窒素など)を使用していた。 ・「入会田」…神社の前につくられた田。そこでとれた米の何割かを部落で分けて、残りは、春祭り、夏の祇園祭り、秋祭りの費用に使われた。 ・「わさだ」…部落の通り、クリークの間にはさまれて存在する。家の近く、部落の中に存在する小さな田のこと。 ・「さがり」…本田を保護するためにつくられていて、大雨の時などに、本田が壊れるのを防ぐ。ここには、本田と同様に米が作られるが、裏作(麦)は行われない。さがりは、久保田町の中でも金丸周辺に存在していた。主に八筋堀(※)の周りにあり、小さな堀のところにはなかった。堀の両側につくられた。 (※八筋堀…主な堀、八つをいう。地図中荒木筋はその1つ。) <裏作について> 本田では、全ての田で裏作が行われている。 昭和20年ぐらいまでは(戦前)全部の田ん中で裏作が行われていたわけではない。それは、戦争で人手が足りず、労力不足のためであった。その後、農機具ができてきた後に、裏作でビール大麦を作るようになってから、ほとんどに田で裏作が行われるようになった。 しかし、昨年ぐらいから麦の値段が下がったため、裏作をやめる人もでてきた。 <村の様子の変化> 農業と関係のない人の住宅が増加している。しかし、昔から農業をしている人は、あまり減ってはいない。専業農家は1件だけである。 減反政策がすすめられ、一部の田では大豆がつくられている。 <聞き取りをした方> 氏名 倉本一美 生年 昭和22年 (久保田町の横江では、話をきくことができませんでした。) <行動記録> 11:00前 バスを降りる。 ↓ 横江公民館をたずねる。(誰もいない。) ↓歩き回る 古い農家風の家を探し、一軒たずねてみるが留守だった。 ↓歩き回る 庭にいたおじいさんに尋ね、古老の家を教えてもらう。 ↓ 11:45ごろ 古老の家を訪ねるが、断られた。 ↓歩き回る 庭にいたおばさんに尋ね、圃場整備にたずさわった方(蘭さん)の家 を教えてもらう。 ↓20分ほど探す。 見付からなかった。 12:00ごろ ↓歩き回る 横江駐在所をたずねるが、留守だった。 ↓ 12:30をすぎた。ゆえに金丸へ移動。(訪問をさける) ↓ 倉本さん宅を探す。 ↓ 店を見つけ、倉本さん宅を尋ねる。 ↓確認しに行く。 13:00ごろ 公民館の軒下で昼食。 ↓ 確認した家の表札をみると違っていた。 ↓そこの家の人に倉本さん宅を尋ねる。 13:25ごろ 倉本さん宅 ↓話をきく 14:35ごろ 倉本さん宅を出る。 ↓ 倉本さんに教えていただいた、横江の古老の家を訪ねるが、調査できず。 ↓ 横江駐在所を再び訪れ、蘭さん宅を教えてもらう。 (しかし、おまわりさんの話では、古老は入院中) ↓ 15:00すぎ 蘭さん宅を訪問するが留守。 ↓歩く。 もう一軒訪問するには時間が足りなくなったので、バスを待つことにする。 ↓ 録音テープの確認を行う。 ↓ 16:00まえ バスに乗る。
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