【佐賀市金立町徳永、久保泉町村徳永地区】

「歩き・見・聞く歴史学」レポート

ST-26 1AG95031 今村真士

      1AG95039  上田哲也

・調査日 1月20日(土) 金立町徳永 西岡和久様宅

          久保泉町村徳永 光武仁士様宅に訪問。

 

 徳永の西岡和久様宅に行く(11時)。西岡和久さんはまだ若い人で、昔の事はあまり知らないらしく、その母親の方がいらしていて、その方に主に聞くことになった。最初はやはり勘違いがあり、役所の帳簿をもってきていたりしましたが、説明を加えて理解して頂くことができたという感じです。村徳永は、順調にいきました。また、もう一人連れていらして、よく教えてもらいました。

 

<徳永>

・薬師森と呼ばれている所があり、それは薬師丸という船が沈んだということからついたという事です。

・一のいび―たてぼいに流れ込む。

・二のいび―おきたに流れ込む。

・きれと―土井がきれて、水が流れ込むことにより、名がついた。

・沖田、五反田は、水害で水につかった。

 

<村徳永>

・すぎていじん―伝染病で子供がたくさん死んだ時、そこにまつった。

・この辺りは、佐賀の中で、最も米の収穫の悪い所であった。田が砂質である。明治頃、10a辺り2俵半くらいで豊作で3〜3.5俵くらい。S14年の大干ばつでは1〜1.5俵程度まで落ちた。肥料に、すみかす(油をとった後の大豆)、いわし、にしん、家畜のフンなどを使うようになり5俵くらい。S20年ごろは、戦争の影響で4俵ぐらいしかとれない。隠れて、別の所で作ったりしていたらしい。



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