【佐賀市久保泉町川久保西原1、2、下和泉地区】 「歩き、み、ふれる歴史学」佐賀現地調査レポート 1AG95013 安楽康宏 1AG95025 伊藤宏介 1、西原1 お話しをして下さった人 中原松一郎さん 大正14年生 @)しこ名 地図上の通りですが、田んぼにする土地が非常に少なく、しこ名もすこししか集めることができなかった。(地図は佐賀県立図書館所蔵) A)水利 田んぼには村の東を流れる巨勢川と北の山から流れる小川の水を、水路を引いてクリークにため、そこからポンプで各田んぼに送られる仕組みになっていた。この部落は比較的水には困らなかったそうだが、1994年の際は市のポンプ車で田に水を入れてもらったそうだ。30年前だとすると米は出来なかっただろうとおっしゃられた。 また、クリークのゴミはクリークが小さいのでゴミも少なく肥料には使わないそうだ。 B)村の耕地 この村ではすべての田で裏作ができ、1反で8俵ぐらい収穫できるそうだ。肥料は今は化学肥料で、昔は牛や馬をかっていたのでそのフンを堆肥にして肥料にしていたそうです。 C)今後の日本農業への展望 まずやはり後継者不足が深刻なようです。そして行政がもっとしっかりしてほしいそうです。休耕田政策など政策に一貫性がなく、ころころ変わる政策に一番被害に会うのは百姓だとおっしゃっていた。 2、西原2 山口利太郎さん 大正7年生 @)しこ名 地図上の通りです。 A)水利 村の田んぼには徳永川の水を8ヶ所のクリークへ送り、それぞれの田へポンプで送っているそうだ。しかし、この村は水にとても苦労する村で、大正の初め頃では上流の村と水門をめぐって水争いが起き、怪我をするようなひどい喧嘩もあったそうです。また、昭和14年の大干ばつの時は、米はまったく取れなかったそうです。1994年の時はポンプで川の水を取りそれでなんとかしのいだそうです。 B)村の耕地 圃場整備以前では、しこ名でいうと「いかり、おちょうず」は乾田、「ひがし大塚、あかいれ、上あかいれ」は湿田だったそうです。現在はすべての田で裏作が出来、大麦や小麦を作っているそうです。肥料については西原1とまったく同じです。 C)今後の日本農業への展望 やはりこの村も後継者不足で困っているそうです。この村は佐賀市街へも車で15分くらいと都市に近いせいか若い人はほとんどサラリーマンになり、農家の人もすべてと言ってもいいくらい兼業ばかりだそうです。 この村では、これを乗り切るために工業団地を誘い、水を確保するために東部筑水という筑後川から水を引いてくる工事をしてなんとか農業を続けようとしているそうです。 3、下和泉 坂井誠次さん 昭和21年生 @)しこ名 地図上の通りです。 A)水利 田んぼに入れる水はここも小松川からクリークに入れポンプを使ってそれぞれの田へ入れるそうです。ここも川の下流にあるせいか水には苦労するそうです。上流の神埼という部落と、昔は水争いがあったそうです。おととしの干ばつは市のポンプ車で水を田に入れてもらってしのいだそうです。 B)村の耕地 昔からこの村の田はよく裏作もできたそうです。特に「おきた」は、一反当り10俵は十分とれる程よい田だそうです。肥料は、昔は牛、馬の堆肥の他にニワトリの糞を肥料に使っていたそうです。 C)今後の日本農業への展望 家族経営が出来るくらいの農地の拡大をして、農業だけで生活できるようにして欲しいとおっしゃっていました。この村でも後継者不足で困っているそうです。農業だけでちゃんと生活できるようになれば少しは日本の農業もよくなるだとうとおっしゃっていました。 |