【佐賀市久保泉町上分三地区】

歩き・み・きく歴史学

S1-27 1AG95047  榎木千恵子

      1AG95073  小浜佳奈子

1、今回の調査でわかったしこ名は次の12個である。(傍点はアクセント)

 ・ぇんとく(千徳)   ・いよしぇ(有吉) ・さらやまだ(皿山野田)

 ・みあげ        ・なまる(米丸)  ・おらんた(浦田)

 ・たんした(竹下)   ・んま(野馬)   ・とりごえ(鳥越堤下)

 ・さぶろうまる(三郎丸) ・のだ(野田)    ・むただ(牟田田)

 

 なお、このしこ名は、字名に基づいたもので、呼び名として変化し、この地域に受け継がれてきたものらしい。私達が調べたいしこ名ではなく、字名(小字)ではないかと思い、何度も話を聞いた古老にしこ名の説明をしたが、「しこ名とは何か?」と言われたので、「呼び名を教えて下さい」と言ったところ、上の12個を教えていただいた。「とりごえ」などは、「鳥越堤下」という字名があったが、皆「とりごえ」と呼んでいたものだということだ。また、「のだ」も「皿山野田」を短く言ったものだそうだが、地域(田んぼの)によって「皿山」をつける水田とつけない水田があったそうだ。地図の「のだ」の北部(山側)の方は、「皿山」をつけて呼んでいたということだ。

 

2、この辺りでは、井堰(井樋)を井手と言うそうである。教えて下さった井手の名前は、

 ・かくらんいで ・しぇんじゃあいで

である。

 「かくらん」とは人間が下痢をしたり、嘔吐することを意味し、上分や下分に水をあげたりおろしたりするので、「かくらんいで」と呼ばれたそうだ。「しぇんじゃあいで」は「千徳」にある井手だったので、「千徳の井手」と呼ばれ、方言などで変化したものらしい。

 また、谷についた呼び名は、地図の北方の山の中にある谷で、

 ・うーだに(大谷)

である。これ以外には、谷に呼び名はついていなかったそうだ。

 

3、村の水利のあり方について

 水田にかかる水は、巨勢川から主に引いているそうだ。田に高低があるので、上の方から順に下の方へ流水するしくみだった。下の方の水田に先に水を入れるようなことはなく、「上から入れっくんさい。」などと言って、水を入れたい時は、促していたようだ。

 昭和14年に水不足で大干ばつがあり、減収などの大被害を受けた。低い地域で特に水不足がひどかったため、この時、神籠池を作る計画が立てられたそうである。昭和16年の春、着工し、竣工式は昭和24年4月3日に行われたそうだ。神籠池は共有で、特別な時にしか利用しないそうだ。今でも年数回(1年で3日づつの引水を3回ほどのみ)話し合いで引水するくらいで、ほとんど川の水で足りているようだ。1994年の水不足の際にも、話し合いで「いつ、どこに配分」などと決めてやっていたので、水不足の被害は特になく、例年と変わらない年だったそうだ。もし、30年前に大干ばつがあっても、神籠池があるから大丈夫だった。

 鳥越池や溜池は、「浦田」、「牟田田」、「鳥越堤下」の専用の池であり、その維持・管理も上の3つの水田の持ち主でやっていたということだ。どの川、池でも水争いはなかったようだ。

 

4、その他いろいろについて

 ◎山は共有のものはなく、個人の所有であり、最近ではみかんもあまり(半分ほど)作らないそうだ。

 ◎「浦田」では裏作はできなく、「鳥越」でもむりをすればできたが、ほとんど裏作はできなかった。「野馬」と「皿山野田」の一部(山の裏)では裏作ができた。

 ◎一番良い田で、7俵(約420kg)くらいはとれていた。今では良くて、8俵くらいだそうだ。いもち病などでとれない時は5俵くらいだった。悪田というのは特になく、この辺りの水田は、平均的によくとれるほうで、5〜7俵はとれていた。

 ◎肥料は、単肥(窒素、リン酸などが1つずつしか入っていないもの)が主で、自分たちでまぜて使用していた。有機肥料としては、油かすや魚ふんを使用していた。

 

5、これからの農業について、圃場整備についてどう思われているか。(古老のお話)

 圃場整備をして、作業がらくになったし、良かったと思う。しかし、整備の時に、お金を払わなくてはいけなかったのが大きな負担となったし、減収が10年ほど続いたのでいやだった。水質は汚れていない。

 この辺りの農業については、専業農家は3件しかなく兼業農家ばかりである。3件のうち、2人はビニールハウスできゅうりやトマトを栽培していて、水田だけという所はない。

 これからの日本の農業については、新聞などで東南アジアで人口が増えて、食糧が不足してくる時、日本の農業が立ち上がるのでは?と言われてはいるが、農業に未来の展望はないと思う。減反政策もやめるのではないだろうか。

 

話を聞いたのは……小川早苗さん(男性)、大正2年生まれ、82歳

 

6、感想

 上分三に急に行くことになり、手紙を出していなかったのでしこ名を知っている人に会えるかどうか、不安でいっぱいだった。蒲田さんのお宅をたずねたが、お留守だったので、近くの家を何件かまわっていると、小川さんがよく知っているよと教えて下さったので、小川さん宅をたずねて、今回の調査を無事に済ますことができた。しかし、しこ名ではなく、字名ではないかという疑問があったので、他の人にも聞いてみようと思い、また、蒲田さんのお宅を訪ねたら、今度は娘さんらしい方がいらっしゃった。しかし、しこ名については分からないと言われてしまい、時間もなかったので、あきらめて上分二に向かって歩いていた。すると、その娘さんらしい方が自転車で追いかけてきて、「さっきは知らないと断ったけど、古川文一さんなら、この辺の歴史を調べている方だから、知っているんじゃないかしら?」と、わざわざ教えてきてくださった。古川さんの家を聞いて、そのおばさんと別れた後、歩いていくのには遠く、時間がかかることから、上分二の調査が早く終わったら行くことにした。しかし、結局行くことができなかった。これが、今回の調査での大きな心残りである。

 話をして下さった小川さんというおじいさんは、82歳、もうすぐ83歳になるとは思えないほど元気な方で、たばこを吸っていらした。突然の訪問にもかかわらず、1時間ほど協力していただいて、本当によかったと思う。話を聞きながら、おじいさんの大きな手を見ていると、ああ、ずっと働いていた手なのだなぁと感じた。今は、息子さん夫婦にまかされているそうだ。私達の調査については、何故そんなことをしているのかと言われたので、マニュアルのようにお答えしたところ、「ほー、そうか」と納得してくれた。

 今回で佐賀を訪れたのは2度目だが、上分二も上分三の方々もいい方ばかりだった。調査以外での世間話も非常に楽しかった。とても良くして下さった佐賀の方々には、深く感謝したいと思います。また、行く機会があったら、是非参加したいと思います。



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