【佐賀市久保泉町上分二地区】

歩き、み、きく歴史学現地調査レポート

S1-27 榎木千恵子

小浜佳奈子

○しこ名について

 山に囲まれた小さな集落で、田は(夏に訪ねた、上峰などに比べると)とても少なく、しこ名も少なかった。

 県道を境にした、「ねこんたい」「にしんたい」「ひらばる」は、あわせて成瀬(なるせ)と呼ぶ。「谷」のことを「たい」と発音する。漢字をあてる必要はないと書いてあったが、教えて下さったので書いておいた。

 

○水について

 ・巨勢川からの水と、山からの流れ水のみ。(谷から集まる→出水)

 ・井樋(いで)は、地権者が管理する。

 ・材料は市の行政からもらうが、コンクリートでかためたりするのは自分達で行う。

 ・段々の田が多いが上の田から下の田に流すと一つの田で水があたたまらないので、水路(みぞ)のみを使用する。

 ・井樋の権利は、絶対に上(上流側)の人が強い。水は上から下に流れるものだから、下の人が先に自分で水を入れておいて、あとから上からきても、下の人は何もいえない。

 ・昭和14年の大干ばつの時は、大飢饉はなかった。しかし、芹田さん(話して下さった方)が子供だったので、田が枯れたかどうかはわからない。

 ・平成6年(1994年)の水不足では影響があった。山からの流れ水のみでつくっていて、井樋からひいていなかった田が大変だった。背振村からの水不足で、ポンプで水をあげた。

→このあたりは非常に水がきれいで、多くの家の庭や畑の隅に小さな池があり、山からの水をひいていて、そこにほとんど鯉がいたが、1994年の水不足の時はこれらの池にも水が流れてこなくなり、鯉のためにポンプで水を引いたりもした。

 ・もしもこの水不足が30年前だったら、田が枯れ、大被害が出ていただろう。今はポンプで水不足は防げる。

 ・「しいのきたにいで」(井樋)は、この辺で最大で、勝宿神社(上分三との境界)のあたりまで影響する。

 ・水をめぐる争いは全くなかった。

 

○耕地について

 ・米は良い時は八俵ほどとれた。

 ・「ひらばる」は乾田で、麦を作っていた。

 ・湿田のことを、深田といっていて、一年中水がたまっている田のことだそうだが、「つるぎたに(すすくま)」が深田であった。

 ・実際(登録)より広い田のことを、「畝広(せびろ)」といい、反(たん)の昔の呼び名である。なぜ、このような田が存在するかというと、米があまりとれないから行政から聞かれたとき、せまく答えるため。

 

○肥料について

 ・戦前…大豆かす、魚粉、油かす

 ・戦時…配給制の化学肥料

 ・肥料をもらうときは田を実際より広く言った。すると多くもらえるので。

 

○整備について

 ・「開(ひらき)」という自分たちでやる整備がある。

 ・整備してよかったか?→正確な広さが報告され、税金の負担が(今年から)大きくなった。

 ・この辺りは、“自主減反”をしてくれといわれていて、規制はない。

 ・主に牛飼いの人や転作の人が減反している。

 ・下流の平野の方が圃場整備をしていて、目標に達しているらしく、上まであまりこない。

 

○上分二地区について(山について)

 ・この地区は国有林と県有林に囲まれていて昔から貧しい所である。

  →明治時代の財閥、「いたみやたろう」さんが山を持っていた。その山には九年の歳月をかけてつくった、紅葉で今も有名な「九年庵」などがあった。(昔は下の平野をみわたすみはり台があった)その山をやたろうさんの後、銀行が買い取り、その「銀行山」を昭和22年におぎ炭鉱が買い取って今は国有林となった。

 ・今、個人で山を持っている人などはいない。

 ・皆、兼業農家である。先祖からの田があるから農業をしているようなもので、農業だけでは生きていけない。年金だけでは農業にとても足りない。赤字ばかりである。

 

☆話をして下さった方

・芹田清さん 68才(S2,2,2生まれ)もうすぐ69才。

→10〜20年後にはこの辺の農家は消えてゆくだろうと思う。田は荒れていくだろう。息子さんが亡くなられ、芹田さん夫妻のどちらかが農業ができなくなればもう終わる。

 私達が「農学部です」と言ったら、「農業の必要性を訴える国の役人になってくれ」と笑いながらおっしゃった。

・芹田法子さん 41才(S29,8,29生まれ)

 上の芹田さんの弟さんの息子さんのお嫁さんで、調査時家を貸してくださった。(本当はこの方のご主人に調査をお願いしたが、お若いため、清さんを紹介してくださった。)調査にもご協力して下さった上に、お茶や果物までいただいた。

 →夏場には農業を手伝う。農業がもっと楽しかったり、生きがいがあったら繁栄するのにと思う。

 

○調査を終えて

 自然のすばらしい所だった。水が美しく、魚が川でたくさん泳いでいた。静かで鳥がたくさん鳴いていた。芹田さんも水が美しいのが自慢であるご様子だった。しかし、農業に関しては、あまり明るい話はなく、ひっそりと営んでいるというような感じだった。法子さんはお子さんの看病で忙しいのに、合間にはずっと私達の調査に協力して下さった。お茶なども頂いた上に、ストーブで部屋を暖かくして下さり、本当に嬉しかった。清さんの家は法子さんの家から少し下った所にあった。帰り際に1mほどある鯉を見せて下さり、その大きさにおどろいた。お二人ともそれぞお忙しいのに、とても暖かく、明るくご協力下さり、本当にうれしかった。久々に人の温かさに触れ、自然に触れた一日で充実していた。調査もよく聞き取れたと思う。道々、田の様子を観察していった。山すそのせいか、一つ一つの田は上の方が狭く、下にいくにつれて少しずつ広い田になっていた。段々の田の土手は直径20cmほどの石で石垣をつくってあるところが多かった。帰りのバスから見た、整備された広々とした四角い田は、この地区にはなかった。山すそに様々な工夫をこらして田をつくった昔の人はすごいなと思う。ある家に牛がかってあり、子牛がいた。昔はこんな牛たちが田を耕していたのだろうなあと感慨深かった。また来たいなと思わせるようなすばらしい所に行けて、勉強も休息もでき、よい一日だった。



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