【佐賀市久保泉町下和泉1、2番地区】

歩き・見・聞く歴史学現地調査レポート

S1-31 1AG95276  綿部隆太

S1-31 1AG95241  松元太孝

○しこ名

 横枕(よこまくら)、のんぼい、ごんげんさん、北宿(きたしゅく)、本村(ほんむら)、永屋(ながや)、永蓮(ながはす)、どうめん、沖田(おきた)

 

○ほり

 ねこぼい、しんぼい、まつりぼい、つつみぼり

 

○井樋

 ちゃえん口、くいやま口、新村口

 

○川、水道

 横内(よこうち)川、小松川、官舎(かんしゃ)水道、朝号(あさご)水道、馬入れ川

 

○集落

 新村、本村、大屋敷(ううやしき)、奥(おくん)屋敷、門前(もんぜん)屋敷、出来(でき)町、宿(しゅく)、野々中(ののなか)、南野々中、折地(おりぢ)、池副(いけぞえ)

 

○史所

 白石様(しれっさん)、欣走庵(きんそうあん)

 

○名前の由来、その他

 ねこぼい…猫などの増えすぎた動物や北の集落ででるゴミ、し尿を処理する堀だった。この堀より下流の水は汚かった。今は無い。

 

 まつりぼい…この堀の近くの水田から船の帆柱が出土した。昔は浜辺だったのかも。今は無い。

 

 つつみぼり…かつては2つあったが、1つが佐賀大の所有となり埋められて、今は1つが残る。溜池である。昔は大量の水を蓄えていたが、現在は川からの水路が埋められて水量が激減している。

 

池副・永蓮…この地名から、昔はこのあたりに池が存在したようだ。

 

 横内川…成富兵庫茂安(なりとみひょうごしげやす)という昔の殿様が水田の水不足解消のために神埼郡にある城原(じょうばる)川からの水を引いたもの。この人は治水の才にたけており、地元ではかなりの人気者だ。(下和泉一帯の水田は横内川に頼っている。)

 

 小松川…重要河川(国管理)で、水路には使わず、排水や大雨時のいらない水を流す。

 

 新村口(井樋)…下和泉下一番組みへの水の取入れ口。

 

 白石様…豊臣秀吉が朝鮮征伐の時、ここを通った。その時、秀吉が腰掛けて休んだといわれる石がまつってある。地元の人の信仰は厚い。

 

 欣走庵…大友宗麟の息子成足が龍造寺氏を攻めて、今山で敗れて逃走する際に、ここを通った。その時成足が残していった“大般若経”がまつってある。大般若経は時価1億円らしい。

 

 地元の人の話では、大屋敷、奥屋敷、門前屋敷とよばれる一帯から、圃場整備の際に鎌倉時代の遺跡が数多く出土したらしい。このあたりの土地は乾燥しやすく、家を建てるのに適しており、昔はここが下和泉の中心だったようだ。沖田というしこ名もここを中心とした見方から名付けられたものだろう。

 

○水利慣行について

 むしろを青竹で固定して、そのむしろで水を止めるという一般的な方法を取る。神埼郡の横内川にはちゃーきばしとよばれる水量の調節装置がある。5月にとりつけて10月に撤去。

佐賀市足りない…石をどける

 神埼郡足りない…石をつける

※図省略(入力者)

 

○水争いについて

 未だにある。一昨年の水不足のときは、神埼郡も含めてこの一帯の人みんなでけんかした。昔は横内川から水をひいている部落の人みんなでけんかした。昔のけんかはむちゃくちゃひどく、遠征してけんかすることもあった。

 

○井樋番について(6月〜9月)

 水田へ水を引くのは夜である。夜ごとに井樋を開いていい田と閉めなければならない田が決められていて、夜通し起きていて違反者がいないか巡回した。朝になると家に帰り寝る。日当は少し出る。

 

○川さらいについて(井樋番が主にやった)

 農家の代表が行った。この代表の人々の間で、理事長、会計、工事係、庶務の担当があった。手当ては年に1〜3万円でお小遣い程度。今は5月の連休にこのあたりの住人全員で川さらいを行っている。もちろん非農家の人も参加する。

 

○堀のごみ取りについて

 堀のごみは水田への肥料となった。所有権があり、堀の際に水田をもつ人がごみをもらっていた。3年に1度行う。

 

○1994年の干ばつについて

 深井戸、横内川、そしてダムの水を利用した。上和泉には給水車が来た。30年前だったら、深井戸がなく稲はほぼ全滅していた。救済方法はなかっただろう。

 

○村の範囲について 赤線で示してある。

 村の境界は特に無く、おおまかな区分であった。共有の山林はなかった。

 

○下和泉の田について

 良田は沖田、悪田はない。のんぼいの米はおいしい。良田とはいっても、普通の田より一反当たり一俵多いくらい。良田…7俵、普通の田…6俵。

 永屋、永蓮、どうめんの田は裏作ができなかった。のんぼいでは裏作をしていた。裏作では主に現在は麦、昔は菜種であった。最近は利益が少ないために、裏作をする人は少なくなっている。

 戦前の肥料は配給品だったいわしと牛ふん、堆肥(わらを腐らせたもの)。

 

○年齢

 山木江美子 63歳(昭和7年)

 山木義春 64歳(昭和6年)

 山木清 84歳(明治45年)

 

○村の姿の変遷について

 圃場整備でガラッと変わった。現在、佐賀大付属農場がある所は松山と呼ばれる雑木林だった。そこは狩りや薪採集の場であった。

 圃場整備の工事費の15%は農家負担で、その代金を今も払い続けているそうだが、あと25年は払い続けないといけないらしく、頭が痛いそうである。

 百姓が1人で面倒を見られる広さは5丁(ヘクタール)が限度であるが、5丁の田の収益は1年で250万円程度。現在は、農家の数が減って、忙しい時期は大変忙しくきついらしい。

 

○日本農業の展望について

 下和泉一帯では荒れ田が多く目についた。北の方の山手の集落はゴーストタウン化しているらしい。そして、私が話した二人の方は口をそろえて、「規模を拡大するよりは、別の仕事をして兼業した方がいい。」と言われた。

どうしてか。―

 米の値段はこの15年間据え置きになっていて、現在の日本の賃金体制と大きくズレていて、懸命に働いて年収250万円では生活が厳しい。

 水田を増やすと、水のめぐりが悪くなり、生産量が落ちるし、他人とのいざこざも心配される。昔の横内川は整然と整備されていて、豊かな水を運んでいたが、今は手入れが行き届いていないので、水も乏しい。

 規模を拡大すると、どうしても大型の設備、機械が必要になるが、これらが高価格で、収益を考えると赤字は必至である。農薬も値下げしたと言われるが大変高い。

 私はいずれ早い時期に、世界的な食糧難の時代が訪れると確信しているので、我々日本人は国内の農業を衰退させてしまわぬよう務める義務があると思う。そうしないと、日本人は必ず食糧に困るだろう。

 

 わかりにくい箇所が多々あったと思いますが、最後まで読んでくださってありがとうございました。(松元・綿部)



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