【佐賀市久保泉町下和泉五番、下和泉六番地区】 1AG96127 田中耕一郎 1AG96132 塚本康博
聞き取りを行った人々 朝鵜正之 松瀬文雄 緒方勇 小林利文 中嶋主税
[田畑] 下和泉五番 立野のうちに コマツ(小松) 小松のうちに コマツ(小松)、ノナカ(野中)、キュウジャダ(旧田) 二本栗のうちに テラダ(寺田)、ヤマンカミサマ、ヤマンウラ 上場のうちに テラバタケ(寺畑) 二本椎のうちに タテノ、シンミヤンマエ 天神松のうちに テンジンマツ 五本柳のうちに ゴホンヤナギ
下和泉六番 古村のうちに スウフクジ、テラダ、テラボケ、ギチョウボウ 古賀のうちに ギョクセン(玉泉) 椎ノ木林のうちに タカウラ
[水路] 下和泉五番 サカイデ(小松川) 下和泉が水利権をもっている。 ウラシイド
<行動記録> 12月21日土曜、我々、塚本康博、田中耕一郎は自家用車により、佐賀県佐賀市下和泉を訪れた。現地に着いたのは、正午まえだったため、地図に書いてあった神社に出向いて、そこで昼食時が過ぎるのを待った。昼食を持っていっていなかったので、買おうと思ったが、店はどこにも見当たらない。だから昼食ぬきで神社で1時まで待って、それから行動開始した。我々の担当地区は下和泉五、六だったので、まず下和泉五(略して下五)から始めることにした。まず、下五の生産組合長の家を訪れた。しかし、家には鍵がかかっていてだれもいなかった。仕方がないので下六の方にまわって、下六の生産組合長、朝鵜正之さん宅に行った。ここは鍵はかかっていなかったが、呼び鈴を押しても、大声で呼んでも誰も出てこない。だから、次はその隣の家に行ってみたが、ここもだれもいなかった。もう仕事に出てしまったのだろうかと思いつつ周囲をさまよっていると子供2人が遊んでいたので、この辺に昔のことにくわしい人はいないかと聞いてみると、そのうちの一人が自分の家に入っていって、おじいちゃんをつれてきてくれた。そこで我々がしこ名についてたずねると、自分の家の田圃しか知らないと言い、自分の家の田圃はフナダという名で呼んでいるということを教えてくれた。田圃の形で呼び名がそうなったということだ。その老人は松瀬さんといい、松瀬さんによると緒方勇さんという人がこの辺ではよく知っていると教えてくれたので、緒方さんの家に向かった。しかし、緒方さん宅にもだれもいなかった。せっかく手掛かりを得たと思いきやまたふりだしにもどってしまった。ここまで人がいないとなると、田圃で働く人に直接きいてみるしかないと思い、農作業している人に聞くことにした。少し先に農作業している人が見えたので、そこに行ってしこ名についてたずねようとすると、その人が、先刻訪ねてだれもいなかった生産組合長の朝鵜さんだった。 ついでに、下六の範囲と、他に田圃のことでくわしい人を聞いてみた。朝鵜さんによると小林利之さんという人がくわしいということだった。そこで小林さん宅に行ってみた。ここは在宅で、朝鵜さんの話の通り、小林さんはいろいろなことを知っていた。小林さんによると、田圃それぞれに付いた名前はないが、ある場所に固有の名前は付いていることだ。ここでは、タカウラ、テラボケ、テラダ、スウフクジ、ギチョウボウ、ギョクセン、タチヤシキなどの名前が集まった。タカウラというのは、昔この辺はけっこう栄えていて、そこにあった遊郭の女郎さんの名だということだ。〜ジャテラという名前が多いのは、昔この辺には寺が多くてその寺の所有地を買い取ったからではないかという話だ。また、タチヤシキは刀鍛冶がいたのではないかということだ。スウフウジには次のような話がある。スウフクジに佐賀板金という会社があり、その裏に大きな大木があるという。その大木は、その昔ベザイテンをまつってあったそうだ。そして、その辺ではテンジンサン祭り、ベザイテン祭り、しらひげさん祭りと年3回祭りを行っていたそうだ。そこにスウフクジに火葬場を作れと市役所が言ってきたそうだ。そこで村が2つに割れ、論争が起きたが、結局、火葬場は作らないようになったが、年3回のまつりを年1回にしたそうだ。今の佐賀板金では病人が続出するらしく、大木を切ろうかという話が出てからというもの、そういうことが起こりだしたらしいが、今の人はその大木がベザイテンをまつってあったことを知らないらしい。 このような話を聞いた後小林さん宅を後にして、下五の調査にかかった。しかし、相変わらず、生産組合長さんは不在だったので近くで何か作業していたおばさんに聞いてみたが何もわからないようだったので、下五の範囲をきいて、他をあたった。近くをウロウロしていると、近くの家におじいさんの姿が見えたので、行って聞いてみると、自分は農家じゃないからわからないが、中嶋主税さんという人がくわしいということを教えてくれた。その中嶋さんはちょうどその家のウラの方で農作業していた。中嶋さんは下五のほとんどの範囲のしこ名を教えてくれた。水路についても、ウラシイド、サカイデの2つを教えてくれた。サカイデはその昔、神埼の城原川からひいてきたが、はじめは流れなかった。そこで成富兵庫という人がもう少し掘り下げて、それで流れなかったら切腹すると言い、結局それで流れたということだ。今でもナマスをそなえたりしているらしい。あと、この下和泉は、いまだに水利権を持っているということだった。 この時点で4時前だったのでこの辺で調査を切り上げることにした。 調査をしていて思ったのだが、現地の人でさえ、圃場整備が行われてからは小字名で呼ぶのが大部分になってきて、かなりの年齢でないと、昔の名前にはくわしくなく、ほとんど消えかかっているようだ。それにしても現地で聞き込みした人達はみんな親切で、とても聞き込みしやすかった。人間はあたたかかった。 (文責、塚本) |