歴史と異文化理解Aレポート

 

<調査者>

井本 佳宏

 

〜木原編〜

今回私は木原という所を調べたのでそのことについて書きたいと思う。

 聞取りの方法というのは、私が地図の様々な場所をペン等で押さえて「ここは何と呼ばれていましたか?」と聞いて、判明した部分にしこ名を書き込んでいくという形式をとった。

 

 内容であるが、まず、昔の木原という土地は現在とは違い、地図(佐賀県立図書館所蔵)上ではオレンジの蛍光ペンで囲まれた部分であったという。昔は木原には約50軒程度の世帯があったらしい。地図には書きこんでいないが緑色の部分あたりは「○○さんの家の裏の田んぼ」というような呼ぶ方だったらしい。

他に面白いのは、「たちんひゃし」という所で、ここは疫病等で死亡し、火葬にできない死体を埋める場所であったらしい。この木原では特にクリークにしこ名はなかったようで、当時の尋常小学校(現北川副小学校)への道がクリーク沿いになっていて、その道の名で場所を表したようだ。例えば、黄色の部分は「学校への道」という意味で「学校のーて」(入力者注「学校畷」カ。)と呼んでいたらしいし、赤色の部分は「あんじゅうみち」と呼んでいたらしい。

他にハッキリせず地図に書き込む事の出来なかったしこ名について触れておきたいと思う。しこ名がハッキリ判明しなかったのは、おおよそ青色の部分であり、土地の高低や田んぼの形状により「うえのだん」、「したのだん」、「たかだん」、「ひくだん」、「かぎ田」、「さんかくだ」、「ながおさ」、と呼んだり、「がわ」という言葉を用いて「学校のーてがわの田んぼ」といって場所を表したらしい。

私が今回の調査の過程でしこ名が思っていたよりも数が少ないので、お聞きしてみると、「○○さんの家の上の段」や「○○さんのかぎ田」というような表現を用いる事が多いということであった。ただ、土地の高低に関しては、地図の青色部分の中では西側が高く東側が低かったそうである。

 

 

 日本の農業の現状及び将来の展望についてお聞きしたところ、「貿易の振興や国際化も大切なことではあろうが、自分としては食料自給が基本的な考えである」とおっしゃった。肥料のことでは、「現在は化学肥料を使わざるを得ない状況になっている」とのことであった。

 最後に今回の調査に御協力いただいたのは北古賀光吉さんで、大正15年生とのことである。



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