歩き・み・きく歴史学 レポート 火曜5限 佐賀市北川副町 江上 光法 調査者:坂口真理子 熊谷麗名 <北川副町江上> (1) しこ名について あまり由来はないらしいが、言葉がなまったものが多い。村分(むらぶん)という名前は農地も宅地も同じである。 (2) しいどのしこ名 大正9年頃、このあたりに電気が通り、モーターで動くかんがい機ができた。そのため、38haほどの田んぼに3つのかんがい機でくみあげていた。1つのモーターは18ヘクタール、14.5ヘクタール、18ヘクタールずつぐらい。 (3) 水利のあり方 ・筑後川からの水を取り入れていた。つまり、あおに頼っていた。また、一部では山からの水も取り入れていたらしい。佐賀江川からも取り入れていた。川副町の井樋からも取り入れていた。ここは、いかだが下ってきており、下流には材木屋もあった。もちろん、周りの村と共有である。それは、荷を運ぶために船がわたったりするからなのと、旧佐賀市城内の排水対策に使用されるからである。 ・水の配分に関して、特別の水利慣行はない。 ・この地方は、水車で水をくみあげないといけないけれども、水はわりと恵まれている方だったので、過去に水争いでそう大々的なものはないらしい。上の方では自然灌漑に頼っており、山から流れてくる水が少ないため、せきを作って、水をせき止め、自分の方に水がくるようにしたらしい。また、反対に地盤が低いので、排水の方で土井をくずしたりするもめごとはあったそうだ。そのための土井を守る守り番がいた。 ・この地方は筑後川から満潮の時に逆流してくる真水をクリークに貯水するあおによっている。塩が入ってくるため、深い所をほっている。5月から9月いっぱいぐらいまでの塩の満ち引きするとき4時から6時間ぐらいかけて取り入れていた。ちなみにこのあたりは有明海の干満の差が6~7mぐらいある、いわゆるゼロメートル地帯である。井樋番が取り入れていた。井樋番は、集落の人が交代で1年程責任をもって行っていた。年寄りの人が暇があるときやっていたらしい。 ・このあたりは塩の被害はあまりない。諸富町ではよくあるそうだ。 ・井樋番の手当ては、土地改良組合から出ていたそうだが、わずかなものだったらしい。 ・年に1回ゴミとりはしていた。所有権はない。 (4) 村の範囲 ・村の共有の山林は、わずかで特別にあげるほどのことでもないそうだ。所有者はいたそうだが、農地改革で持つことができなくなったそうだ。 ・このへんは林や竹やぶがいっぱいあって、それを切り開いて家を作っていた。 (5) 村の耕地 ・この地区は、特に良く米がとれるようなところ、逆にあまりとれないようなところという差はなく、平均的である。クリークの下の低い所は、少し収穫量が低かったらしいが、災害も大水ぐらいなのであまりひらきはない。 ・戦前、収穫量は1反当たり平均して8俵ぐらいである。10俵とれれば豊作だったそうだ。 ・肥料は、戦前は自給肥料だったのでクリークのゴミを1月から2月初めごろ集めて使用したり、し尿を用いた。し尿は馬などのを使用しており貴重なものだった。おけでかついで運んでいた。戦後すぐは、肥料として使っていたりゅうあん(硫安)の価格も高く、またこの付近にあった肥料工場が化学工場へと変わったので、肥料が手に入りにくかったらしい。 (6) 村の移り変わり ・この付近は福満寺を中心としている。福満寺は1000年の歴史がある由緒あるお寺であり、天台宗と真言宗の二つの宗派をもっている。鍋島藩の藩政下にあった頃は、山伏の出入りもあり、祈祷寺として利用されていた。また、女人禁制の厳しいお寺でもあったらしい。 ・ここは昔は、有明海の一部だった。橋を作りあげるときにカキが積み上げられていたそうだ。 ・室町ぐらいに、江上なんとかという豪族の館がここら辺にあって支配していた。東の方からは、攻められる心配もなく自分の支配下にあったが、西の方からは北九州や熊本からの取り合いもあったため、その域を守るため防御線の意味もあり、いろいろな防御やとりでを作ったり、橋をおとしてみたりしたそうだ。 (7) 訪ねた人 吉原実さん 大正9年生まれ (8) 聞取の方法 お宅にお邪魔して話をうかがった。道に迷ってしまって、お宅に行き着くまでに1時間はゆうにかかってしまった。雨のためか、人影もほとんどなく、誰かにたずねようとしても聞けないので、さらに手間取ってしまった。しかし、快くいろいろなことを話して下さったのですごくうれしかった。 <光法> 用水について ・川、ため池 北山ダムのみ。大出土地組合で管理されており、大和町、佐賀市、川副町、東与賀町、久保田町にも引水されている。 ・井樋 西出口橋のみ。北山ダムから水を引いてきて、三面水路で取り入れる。 ・水利慣行 上位優先。上の田で水があまったら、樋門を開けて下の田に分けてやる。 ・淡水 下の田は水がこない場合があるので、淡水も利用している。光法は上の方なので淡水はない。水不足の時は枝吉からポンプでくみあげることはある。一般に筑後川に近い東の方の諸富町川副町である。 ・井樋番 川副町から5人が選ばれて総代となる。この5人は水不足の場合など集会を開いて配分計画をたてる。手当ては佐賀土地改良区からでているようだが、額は少ないらしい。 ・水利賦課金 一般的にはどの地域もかわらないが、三面水路は受益者負担で地域によって額が違っている。 ・水争い 過去にもめごとはあったが、争ったわけではないらしい。樋門を閉じたままにしていて、川副町の人々が抗議にきたことがある。 ・村の範囲 昔は地図に示したあたりだった。同じ光法でも他の所は昔は違う地域だった。 ・非灌漑時期のゴミとり 毎年5月に行政が実施しているものと自治会によるクリークのごみとりや、水の流れが悪い場合に生産組合が実施するものがある。また、2~3年前の水不足で干上がった時も、丁度よいのでつもった腐葉土を掘り出して掃除した。そういう場合は、農家、非農家を問わず、各家庭から男手を出し、行政から借りた道具(竹の棒の先にカギがついたものや、はこ舟)を使用してゴミあさりをする。 ・田について 肥料はごみあさりをしたごみや油かす、牛フン等。昔は馬によって田を耕やしていた。土地によって収穫や裏作の違いはなかった。平均8~9俵、よい場合は10俵とれた。 ・入会山について 昔から山林はなかったので入会山もない。 ・これからの村の姿 これからは、堀が埋められて道路になるだろう。田も1割くらいは減ってしまうだろう、とのことだった。 ・村の人 武町和則さん S5生 (友人の林さん T13生) ・アクセント あまりあがりさがりがない ほり→ほい しち→ひち ・字名 田んぼの売買のときはしこ名でなく字名を使うらしい。 ・しこ名 「じゅうご」や「じゅうしち」など数字があるが、順番通りでないのはなぜだろうかとおっしゃっていました。 |