【杵島郡白石町湯崎、川津地区】

中世の村と人々(しこ名さがし)

SU−27 1AG940    神田素子

      1AG940    菊池真実子

      1AG94094   小林晶子

 

<湯崎について>

・湯崎では、田ん中の大半が『○のつぼ』というしこ名で呼ばれていたが、あまりつぼの呼び方を用いない田ん中には、たとえば、“ちのつぼ”は『西里(ャーイ)』、“にじゅういちのつぼ”は『広田(ひろた)』というように、土地の人々に親しまれている別のしこ名をもつものもあった。また、一から三十六までのつぼがあり、つぼ名がついていない所には、『水田(みった)』や、『また西里(ジャーイ)』や、『十町畑(じっちょばたけ)』というしこ名がついていた。湯崎の部落で、10軒だけ外の家のかたまりから離れている箇所があり、そこは『なかみち』と呼ばれていた。

 堀の名前では、『ジャーコクボイ(だいこくぼり)』というものや、昔、湯崎の北方にたかじょうという城があり、その城の外堀が二重になって、二重の堀の間には島があり木がたくさんはえて林となっていたので、その堀は『ガビャシ(なかばやし)』と呼ばれていた。井樋には『メコージ(はめこうじ)』というのがあり、これは湯崎の井樋として最も中心的な役割を担っていた。

 十四のつぼを所有している家の者は『ジュシ』と呼ばれていた。

 湯崎の領地内にある小学校へ通うために、川津の人が通っていた近道を湯崎の人々は『かわづみち(川津道)』と呼んでいた。

 

・昔、水田への水は、厳島神社の『ぬいの池』の出水でまかなわれていた。ぬいの池では大量の水が常時わき出ていたので、本当はこれは川津の敷地内にあるのだが、川津だけで利用するにはとても多すぎるということで、川津・湯崎・小島の三つの村で利用していた。水利配分に際しての水利慣行は、『じかんふみ』といって、“10aあたり何分ずつ”などという決まりがあった。

 水争いは昔は頻繁にあり、そのため境目には『どひゅう(土俵)』といって俵に泥をつめたものをおいて、井樋番が蚊帳を下に敷いて、一晩中番をしていた。井樋番は1日交代で、1日に2〜3人、田植えのシーズンの7、8、9月ごろ行っていた。

他の村との共有水路を利用するときには、“かんかんふみ”という競争ぶみの慣行があった。

 

・非灌漑時期のゴミ取りは、2〜3月(春先)に水を落として、“かんぴょうえ”という木製のスコップ(2mほど)を使って掃除を行った。部落から1人ずつ代表がでて行った。

 

・1994年の大変な水不足に対する特別な水対策については、湯崎は深井戸のおかげでなんとか切り抜けた。井戸を掘る前は、水量は天気まかせであった。

 昭和37年に1回目の井戸を掘ったが、出た水はわずかであった。昭和42年に、大きな干ばつがおこった。そこで、知事のかつきくまお氏の意志によって、佐賀県で初めて次のような試みが行われた。北有明町から、ポンプアップして水を3昼夜かかって湯崎まで送り、湯崎でその送られてきた水を、消防ホースで雨のように降らすのである。効果は大であり、収穫もまずまずだった。

 

・村の共有山林については、他の村との共有山林はなかった。山は上と下に分けられており、上の方は財産区で、湯崎部落の所有であった。山の下は部落林といって、個人の所有であった。1〜2月は、まきとりのシーズンで、だいたい1日に50〜60kgのまきを背負って山と家を4往復ほどしていた。このまきは1年分のまきである。

 

・田ん中の質はだいたいどこも同じで、戦前は約50俵(10aあたり)の米が収穫できた。裏作としては、なたね、ソラ豆、麦(1反〜2反とわずかの量)などが少しだけ収穫された。(約3俵/10a)機械がなく、千歯こきを使用していた。

 

・昔の肥料は、しめかす(魚の乾燥したものをうすくはいで、臼でつぶす)を使用。地主などのお金持ちは、まめたま(大豆のしぼりかすを粉にしたもの)も使用していた。

 

・今後の農業についての展望

 最も問題であるのは後継者の問題だという。話をして下さった方は80代であるのに、今も現役で働いていらっしゃった。自分の子供は農業をつがずに、他県へ出て行ったとおっしゃった。自分の田ん中は自分の代でおわるということを淋しそうにおっしゃった。これからの農業への希望は全くないとおっしゃった。とても気の毒に感じた。

 

話をして下さった方 大正8年生 古田重雄さん(副島さんの紹介)

 

<川津について>

・川津では、田が順序よく並んでいて、名前も一の坪から三十六の坪まで順番に名付けられていた。また、それぞれの田ん中のしこ名の後に『西入(シャーイ)』をつけて呼ぶこともあった。(例)一の坪→一の坪西入(いちのつぼしゃあい)坪のしこ名以外には、『やました』、『袋底(ふくろぞこ)』、『発船崎(はっすぼさき)』があった。はっすぼさきは、昔港であり、そこから船が出入りしていたのでそう呼ばれていたそうだ。

 

・水田への水は三つの部落で厳島神社のぬいの池からの出水を利用していた。川津では特にはげしい水争いなどはなかったので、井樋番もいなかった。“かんかんふみ”は日常であった。

 

・非灌漑時期のゴミとりは、湯崎と同じようであるが、人数が足りないので政府から数名の手伝い人を出してもらっていた。

 

・1994年の特別の水対策はなく、湯崎と同様に深井戸のおかげでなんとか無事であった。

 

・村の共有山林については湯崎と全く同じであった。

 

・川津では、田ん中の質はだいたいどこも同じだが、山よりの田ん中はどちらかというと湿田で、(約半分)そこではい草を育てていた。乾田では米をつくり、裏作で、い草、玉ねぎ、麦(わずかな量であるが)などを作っていた。

 

・肥料は、しめかすやあぶらかすを使用。また、ちっ素(りゅうあん)、リン(過リン酸)、カリウムなどを各自で配合して使用していた。

 

・今後の農業についての展望

 川津でも、後継者がいないということが最大の問題だった。何故後継者がいないのかといえば、農業で生計を立てるのが困難だからだ。2haの土地で米をつくったとしても、その収入は高卒の女子の給料と同じぐらいでしかないそうだ。とても農業だけではくらしていけない。また、米の自由化も彼らにとっては大きな打撃だった。

 裏作のい草も中国から入ってくるし、自給できるはずの米も、外国の安い米が入ってきて自由化になり、ますます農家は苦しくなってきている。また、よい品種の米は、作れば値も普通米よりいいが、性質が弱くてあまり収穫が期待できないそうなので、私たちが農学部だということを話すと、強い性質をもつ、良い品種の米を収穫することができるように頑張って下さいと言われた。また、政府に対しては、かなり不満を持っておられるようで、政府の推奨している農業の大型化が実際本当に自分たち農民にとって良いことなのか、熟考して欲しいと言っておられた。政府の考え方は机上だけのものであり、彼らには実際の農家の生活、農家の人々の意見などは、あまり考慮されてはいないようであるので、もっと農家のことを考えてくれればと話しておいでであった。

 

話をして下さった方 昭和2年生 山崎広行さん

          昭和10年生 赤坂和彦さん



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