【杵島郡白石町横手天神、大井地区】

中世の村と人々 第1回現地調査レポート

SU-23 1SC94176 西江 昭吾

1SC94171 中島玄太郎

 

 白石平野の農耕は、弥生時代初め頃から海退してできた海岸平野で始まり、干潟が開拓され耕地が広がる。

 堤防―耕地―揚(あげ)・籠(ごもり)・搦(からみ)=江戸時代

 灌漑用水―低地を利用した溜池、堀からたっぽ槽

 水不足を水保ち(みずたもち)で耐えるため、農地を一寸でも低くする必要があり、土を一ヶ所に盛る。「置き土畝」が多く散在。

 堀端はできるだけ小さくあぜ道で区切って「掻き止め田」とし、寄せ土をして保水をした。重労働であるが、重労働以上に水保ちのことは百姓にとって重要。

 

しこ名の由来

 ・ごろまる…江戸時代に、中国から只江川にきた「ごろ丸」という船がその辺で沈んだことによる。

 ・はったん角…八反の広さがあったことによる。

 他のしこ名は、地元の人もはっきりとした由来はわからず、ただそう呼ばれていたということしか知らなかった。

 

 水利は昔は、浅井戸からの水や、溜池からの水でまかなっていたが、昭和初期の大渇水のときに足りなくなり、深井戸をつくった。また、各家庭には裏堀(うらぼい)があり、生活用水はそれにたよっていた。今では、すべてポンプで水田への水の調節をしているが、昔は水車(みずぐるま、足でこいで水を水田へあげていく)をつかっていた。昨年の大渇水のときは、深井戸からの水でまかなったが、一部の深井戸がない地区では、米がとれなかったという。

 

話をしてくれた人

 字天神 諸岡實芳さん 大正14年生

     藤井正毅さん 昭和9年生

     川崎龍美さん 昭和9年生

 字大井 島ノ江菊市さん 大正10年生

     島ノ江一さん 大正15年生

     副島繁さん 昭和9年生



戻る