【杵島郡白石町遠江地区】

中世の村と人々現地調査レポート

SU-27 1AG94052 大町一成

1AG94095 小林謙作

 

遠江上(とおえ)

・訪問した家……石橋忠さん宅 昭和2年生まれ。

1)      しこ名

しこ名はあまりなかったということだ。人の居場所を尋ねられたとき、家にいる場合には「屋敷」、田んぼで働いている場合は「田ん中」にいると答えれば村の人には分かるそうだ。一家族のもつ田んぼはあまり多くなく、特に一つ一つの田んぼを指定して呼ぶほどのこともないらしい。

石橋さん宅の周りを昔、「五本松」と呼んでいたが、今はほとんど使わないという。石橋さんの田んぼ自体は遠江上の中にはない。もっと西の方にあるそうだ。

遠江上には19世帯おり、その家の集まっている所が遠江の上で、それほど明確な区分はないそうだ。

 

2) 水利

 村を通っている水路は共有のものだそうだ。水路の管理もみんなでやっているということだった。大きい田んぼを持っている人だけ個人の堀をもっていた。

 干魃の時は、ダムから放水し、それでも駄目なら井戸水を使うそうだ。村には11個の井戸があり、一つの井戸から10日取り続けても大丈夫なくらいの水が出る。去年の大干魃の時もこの方法を使ったら水は十分足りて、大豊作になった。

 しかし、地下水の取りすぎで10cm以上の地盤沈下が起こったという。

 30年前にもし去年のような干魃になっていたら収穫量は半分になっていただろうと言っていた。

 

3) その他

 戦前の良い田では10俵、悪い田では45俵の米がとれた。肥料は油カス、豆たま(大豆カス)、石灰などを使っていた。今後の農業は大規模な工場的経営に変わっていくだろうと言っていた。

 

遠江中

 訪問した家……黒木政憲さん宅 大正15年生まれ

 

1) しこ名

 昔は遠江全体を「兵児(へこ)村」と呼んでいた。兵児というのは「ふんどし」のことである。遠江が「かくみちしかくあぜ」と呼ばれる直線の道に挟まれていてふんどしのようだから、そう呼ばれていたのだそうだ。

 遠江中はだいたい真ん中(図中の赤点線。図省略:入力者)で東西に2つに分かれ、西側を「勘入(カンニュウ)小路」、東側を「新村(シンムラ)小路」と言う。

 遠江中の人たちは遠江中より西を「あげ」東を「しも」と言い、遠江中のことを「お茶合小路」と言っていた。これは共にお茶を飲む間柄の「コミュニケーションの場」という意味だそうだ。

 黒木さん宅の田んぼの遠江中にある方を「うらの田ん中」、遠江上の方を「あげの田ん中」と呼んでいた。また、新村小路の四軒の家の辺りは「よいうち」と呼ばれていた。

 堀で名前が付いていたのは「幸三(コウサン)堀」という堀だけだったそうだ。東西に流れる堀の南北に出ている所を「枝堀(股堀)」と言う。また、個人用の堀は「一手堀」と言う。

 

2) 水利

 遠江の南側を東西に流れる水路から遠江の人が水を取ってはいけないのだそうだ。遠江の人は村の中央を流れる水路を使う。

 水が豊富な時には「自由ぐみ」といっていくらでも自由に水をとっていい。水が少ないときには全員が一斉に水を使う「競合(セイヤ)ぐみ」か、一人一人時間を決めて汲む「時の水」という方法で水を取る。

 去年の大干魃の時はダムからの放水と井戸水の使用で何ともなかったそうだ。遠江中には井戸がないのだが、遠江上の人たちと資金を出し合って遠江上に11箇所井戸を作っている。

30年前に同じような干魃が起きていたらものすごい被害を受けていただろうと言っていた。

 

3) その他

 一本松、二本柳などの名前が付いている所は良い田んぼで、籠という時が付く所は悪い田んぼなのだそうだ。良い田んぼでは一反当たり12俵、悪い田んぼでは5俵くらいの米がとれた。

 戦前の肥料は干鰯、豆たま、硫化アンモニウム、「だんご」と呼ばれる堆肥などを使っていた。

 今後の農業はこのままでは後継者がいなくなって崩壊するだろうと嘆いていた。



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