【杵島郡白石町下蓑具、岡崎地区】 聞取調査に関するレポート SU-26 1AG94001 青竜太郎 1AG94017 石田崇 1AG94025 井上純大 調査地区 下蓑具、岡崎 調査期日 平成7年7月11日 1)聞取の方法 手紙を出した生産組合長の東島豊さん、山下英明さんが仕事のため不在であったので、下蓑具の区長 小林毅一さんと、岡崎の区長 林孝一さんに電話でアポイントメントをとり、話を伺った。 まず、下蓑具の小林毅一さんを訪問し、下蓑具のことを雑談をまじえ1時間程くわしく尋ねた。お食事の時間にかからぬよう気をつけた。 次に岡崎の林孝一さんを訪問し、水路や井手のこと、歴史上の珍しい話、地名の由来などを1時間半程うかがった。林さんは水利問題のことにくわしい方で、大変ためになる話であった。 2)内容 下蓑具区長 小林毅一さん 七十五才 はじめにしこ名の話を聞くと小林さんは字名でしか呼んでいないとのことで、あきらめることにした。 次に六角川のことを聞いた。六角川は川の流れ、潮流などが複雑であったので、川の流れを変えるために、川が曲がっている所にアラコという石をつんで流れに対応していたそうだ。また、下四本松の所にこの地区一帯の米を集めておく米蔵があり、六角川を利用して当時の支配藩である鍋島藩に輸送していたそうだ。 下一本松と下十一本松の西側は低地で、そこから水を引いたためそこを水受口といっていたそうだ。下一本松から反時計回りに水を送っていたそうである。また、この…松とか、…柳とかいう字は明治十一年ごろにつけたそうである。 現在の下蓑具は昔、須古村とよばれており、大渡四部落の橋下村(はっしもそんと読む)に属し、神代言葉で「はしもとむら」と呼ばれていたようだ。 この地区の圃場整備は昭和五十五年ごろから六十二年ごろまで行われ、六角川を三十メートル拡大する工事を行ったそうで、火葬場や民家などが移動したそうである。 最後に土地の移動、変化などは干拓から開拓という一連の流れによるものであると教わった。また、この下蓑具は昭和初期から戸数の増減はほとんどないということであった。また、小林さんから昔の地図を頂き、とても貴重な資料を提供してくださった。 2)内容 岡崎区長 林孝一さん 六十五才 岡崎地区でも生産組合長は留守にしておられたので、区長である林孝一さんを紹介していただき訪問した。岡崎でも字名を使用し、しこ名は不明であるとのことである。そこでこの地区の昔からあった水利問題、水田の開拓、井手とよばれる水量を調節するせきのことなどを説明いただいた。 この地区は昔から水利問題が複雑で杵島の幹線水路と焼米の幹線水路にたよっている状況である。杵島の幹線水路は白石溜池からつながっており、白石、福富、北方の一部に利用されている。白石溜池は昭和十四年の干拓の後に作られ始め、戦時中工事が中止になったりしながらも、昭和二十九年に完成したとのことである。ここにはボンタン井手と呼ばれるボンタン、つまりかぼちゃでかくした井手があったとの話である。また、焼米幹線水路は昭和二十八年ごろ新しくなったそうで、水源を焼米溜池に発する。ここには玉吉井手といわれる井手があったそうだ。 遠い昔は五十年に三百メートルぐらいの自然干拓が進む土地であったそうだ。また、この地に、平井恒治と龍造寺隆信という二人の武将が争い、その名が残った隆城などがある。この一帯は沼地であったために隆城は、難攻不落の城と呼ばれ、隆城周囲の「馬洗(うまらい)」「馬田」などは戦争時の名残らしい。現在は水路により水はけをよくし、田になっている。 戦前になると国営で干拓事業が行われ、それが有名な朝の連続ドラマのおしんのモデルとなった地区といわれていた。 去年の大渇水では岡崎地区は平年の二割程度の米しか収穫がなかったそうであるが、下流の六角地区では豊作であった。それは岡崎には汲み上げポンプがなく、六角地区には深井戸があり、ポンプで水を汲み上げていたからであった。この水の汲み上げにより土地が乾燥、脱水状態になり地盤沈下を起こしているそうで、特に船野地区がかなりの被害をうけたそうだ。このような水利権にかかわる問題で岡崎地区と六角地区では対立が起こったそうだ。そのようなことから岡崎の歴史は水との歴史であるとおっしゃっていたこともうなずくことができる。 また、井手と呼ばれる水を取り入れる場所で使われていた用具の話もしていただいた。それは「めじゃく」とか「角落し」とよばれるものである。(図1)※図省略(入力者) 岡崎地区の圃場整備は最も遅かったそうである。林孝一さんは私達に「九大の農学部に来たのなら、公務員になるのもいいが、今後の農業のありかたについてもしっかりと考えといてくれ。」とおっしゃっていたことが心に残った。 3)感想 この現地調査でさまざまな人生の大先輩に話をうかがったが、七十才をこえた老人でさえも忘れてしまっていることがかなり多く、記憶をゆっくりとよみがえらせながら話しておられた。地元の限られた人でしか通じない名前は不便でもあるが、愛着を感じることができとても貴重なものであると思う。 この地区の老人の方々は私達にとてもやさしく接していただいて、その優しさの中にも私達に対する期待感があった。 農業を変えていき、良くするも悪くするも、私達の責任であると実感する。もう一度この調査を通じ、経験にもとづいて農業及び農村を考えなければならないと思った。 |