【杵島郡白石町三町、馬洗地区】 中世の村と人々現地調査レポート 1AG94105W 佐藤尚宏 1AG94121W 新海憲二
A 三町1 しこ名 条里制の跡が残っていた。坪(つぼ)で名付けてあった。1〜36の坪まで存在したのは分かったが、位置がはっきりと分かったのは、4の坪、35の坪のみだった。しかし、名付け方は右図のようだったそうなので、古田さんと考えると下図のようだったと考えられる。
ここでは坪の番号で呼んでいたため、例えば喜佐木(きしゃのぎ)にある六ノ角、三ノ角や「ながんじょ」などのしこ名は全くなかった。 因みに三町は、道を隔てて北が下牛田(しもうしだ)も南を上牛田(かみうしだ)と呼んでいた。また、三町の北(下牛田の北)で、北部(ほくぶ)水路、焼米(やきごめ)水路付近の土地を切地(きりち)と呼び、ここは離れた所にある今泉の土地であった。北部(ほくぶ)水路と焼米(やきごめ)水路の間に約3-5mほどの中島(なかしま)と呼ばれる土地があり、ここでは特には何も作っておらず、戦後昭和30年頃に牧草地として一時利用したことがあるだけである。
2 水路 三町の水田はすべて嘉瀬川之堤から引いた水を利用している。ここでは特に水争いはなかった。嘉瀬川之堤から水路は4の坪、6の坪から三町に入ってくる。4の坪を通る水路には「4の坪ゆび」という水門があった。また36の坪の横を流れる焼米水路にもゆび(水門)があった。水路には特に名はないが、承水路(しょうすいろ)というのがあり、これは悪水を取り除くためのものだった。 下牛田の北部には、北部水路、焼米水路(通称二つで夫婦堀<みょうとぼり>)が存在し、切地はこの水を利用できたのだが、下牛田、上牛田は水の権利がなく、全く使えなかった。 水不足の際には、深井戸を掘ってしのいでいた。しかし、地盤沈下のため圃場整備後、ここ7〜8年は使用しておらず、跡が残っているだけだった。 圃場整備後は、水路の位置もずいぶん変わった。4の坪を通っていた水路はなくなった。
3 地形 三町は平野に存在し、条里制の発達した土地であったことが分かった。
B 馬洗(もうらい)1 しこ名 条里制の跡が残っており、坪(つぼ)で呼んでいた。1〜24の坪があった。昔はいろいろなところから水が湧き出していたのだが、特に小津(しょうず)と呼ばれる湧き水の場所の付近は、小津の田ん中と呼ばれていた。特に4の坪の辺り。 1〜24の坪に入らない土地のうち、東端を東位(とおい、ママ)、西端を西端(しやあい)と呼んでいた。いちのつぼ、にのつぼ等、坪の呼び名は現在の発音と何の変化もなかった。
2 水について 地図に載っていない水路を記しておく。船野溜池からの水路は昭和30年頃現在の位置へ少し北部から移し作り直した。嘉瀬川之堤からの水路も昭和40年頃、県営灌漑事業で現在の位置に作り直された。 かつてあった水路のうち、存在するものは少なく、特に名のある水路はないが、同じ水路を場所によって坪の数から、11の水路、14の水路などと呼んだようだが、確かなことは分からなかった。 ここでは水門のことを井関(いぜき)と呼んでいた。坪の数から6の井関、11の井関、19の井関と呼ばれるものがあった。11の井関は最近作られたもので、昭和34年に完成した。 ほかに6町の元(もと)の井関と呼ばれる井関がある。これは6町の元と呼ばれる長さ6町の境界の道に沿ってあることから、この名が付いた。 8町馬場(ばば)の井関も存在した。馬洗には馬川(うまがわ)という、かつては城の馬を洗っていた場所があり、ここから隆城まで8町あるので、この道を八町馬場と呼んだ(現在の県道錦江、大町線の一部)。この道沿いにあったので、八町馬場の井関と呼ばれていた。 馬川は昭和30年頃までは泳げていたが、今は圃場整備でなくなった。因みに馬川で馬を洗っていたということから、馬洗という地名が付けられたらしい。 馬洗地区ではないが、嘉瀬川之堤からの水路に二又の井関という水門がある。ここに昭和39年まで水の番のために行っていた。
3 水利 昭和30年頃土地改良が行われたのだが、これ以前は船野溜池の水と湧き水だけで、馬洗川地区全体をまかなっていた。改良後は、西位と1〜20の坪は船野溜池ですべてをまかなうことができていた。21〜24の坪と東位では第一回の水引きでは嘉瀬川之堤の水しか利用できなかったため、水引きのためあらゆる駆け引きを行った。例えば六町の元の井関を開く前に水路の水を減らして、より多くの水を流し込むようになった。隣の上黒木、下黒木は、改良前は1回目のみ船野溜池の水を利用できたが、改良後は利用できなくなった。 改良後水を引くとき、21〜24の坪ではチッカンカンと呼ばれる鐘を合図にして、一斉に水車を踏んで水を引いた。
感想 はじめマニュアルをもらったときは楽しそうだと思ったのだが、呼んでいくうちに実は大変なことをするのだと思うようになった。手紙を書いたとき、こんなので本当にうまくいくのかと思った。不安だったので4日ほど前に訪問先へ電話をしてみた。すると、三町の稲富さんは、もっと知っている人を、また、馬洗の長尾さんは二人の古老を紹介して下さるというので安心した。 ところが、三町の稲富和幸さんはよく知らないということで、親戚の稲富豊さんを紹介してくれた。ところが豊さんはよく知らなかったらしく、また結婚式に出かけていたらしく、電話したら親戚の稲富邦治さんを紹介して下さった。しかし、邦治さんは三町の出身ではなく、あまり知らなかったらしく、木佐木や下簑具のことはいろいろ聞けた。 あぶらでん ろくのかく さんのかく こっちどうり ながんじょ 三町のことは聞けなかったので、さらに古田昇さんを紹介してもらった。古田昇さん宅についたときは11:40頃で、12:00頃まで聞いたが、あまり多くのことは聞けなかった。 次に昼から馬洗を訪問した。長尾勝己さんは50歳前後だったようで、古老の香月さん、小島井さんを紹介して下さった。そして小島井さん宅で1:30〜3:30頃までいろいろ聞くことができた。香月さんは「このあたりの農業は決して負けません。」と米自由化について語っていた。そうかもしれないと僕たちは思った。 どちらも条里制のままで、特に変わったしこ名がなかったので、少しがっかりした。しかし、かなりの古老と語り合えたので少しは勉強になったかなと思っている。ただ、雨が激しかったので、外でいろいろ聞くことはできなかったため、地図上での話し合いだったということが残念だった。 もっと残念だったのは、もっともっと準備して、もっと古老に尋ねてみたかった。かなり準備をしていたつもりだが、そうでもなかった。いきなり見知らぬ土地へ行くのだから、最低2回は訪問したかった。 だがかなり満足はした。このような実習はもっともっとしてみたい。もし今度実習に出るならば、もっと詳しいことを調べられるだろう。実際、三町よりは馬洗の方が詳しく聞けたのだから。
訪問した古老 ・三町 稲富和幸さん 生産組合長 稲富豊さん 以上お二人は電話のみ。 稲富邦治さん 昭和3年4月29日 稲富弘安さん 昭和11年6月8日 古田昇さん 昭和7年6月28日 ・馬洗 長尾勝己さん 生産組合長 香月崎太郎さん 明治39年6月25日 89歳 小島井定次さん 明治43年1月6日 85歳 小島井さん宅にて3人から話を聞いた。 |