【杵島郡白石町大原地区】

圃場整備が行われる以前の休耕地に関する現地調査レポート

1AG94030   入江大輔

1AG94031 岩田雄一郎

1AG94041   江口忠広

調査方法 聞き取り

調査日時 平成7711

調査地域 大原下、大原上

 

 私たちは今回大原下と大原上について調べた。今回の調査で地元の古老に話を聞くことによって、大原下、大原上の地形について調べることができた。

 

 

大原下

 まず、大原下の水路についてだが、今は川からポンプアップしていて田んぼに水を引いている。そして水をそれぞれの田んぼに平等に分けている。昔は自分で水路を作って自分の田んぼの中に水を引いていた。

 大原上は昔は何もない状態であったが、大原出身で熊本城の設計者である成富兵庫茂安という昔の殿様(原文ママ)の力で、優先的に水を持ってくることができる。大雨になると水浸しになったりしていたが、20年程前に大雨の時には有明海に水を流すことができる明治樋門を作った。これは大原下の南にある北明(ほくめい)という所にある水路のことについていえば、大原下と大原上を比べると、大原下が大原上よりも後で作ったものだと考えられる。

 去年の渇水は大原上も下もひどくてどちらも農業用水は足りなかったという。

 次にしこ名についてだが、小字と呼べそうな所が大原上にも大原下にもあったが、後から見ると、役所に登録されている名であった。

 圃場整備(昭和53)により、田んぼの区切りが分からなくなってきたという。そしてその整備によって1020年前に50丁に1個ぐらいの間隔で灌漑用の井戸を掘って農業用水として使っていこうとして作った。しかし、地下水の汲み上げ過ぎによる1m位の地盤沈下が発生した。去年の渇水で発生したことが目立ったが、それ以前も地盤沈下は発生していたが、沈下していない堤防が隆起していたと思っていたらしい。

 またその整備によって、ここ56年ですっかり様変わりしてしまって、久し振りに帰って来た人は、自分の家が分からなくなってしまうくらいになっている。また、これにより堀がなくなりゆく傾向にある。また、昔は牛を使って農作業をしていたが、機械化がどんどん進んできた。今は5253ある農家のうち専業農家は3,4軒だけになっている。

 次に、田んぼの差についてであるが、大原下は平等に水を分配しているので、出来具合というのはほとんどの田んぼも同じようなものであると言っている。豊作の時は反当たり10(600kg)で、凶作の時は反当たり56俵と言っている。

 

大原上

 大原上は全部1等田に当たるという。訪問した古老は反当たりいくらとれるかというのは分からないと言っていた。

 次に、肥料についてだが、田んぼの横を流れている水路の土や枯葉を今も肥料として利用している。そして今は有機質肥料が中心である。戦前の頃は肥料として使っていたのは、マメタマ(大豆の油粕)、ニシンの干した粉、堆肥、化学肥料であって、化学肥料というのは化学製品を混ぜる割合によって名前があった。そして、大正56年ぐらいから使い始めたと言っていた硫安とかいうものがあった。戦争中は配給になっていた。

 裏作についてはタマネギ、大麦などを作っているが、殆どが乾田である。昔から裏作をすることはかなりの労力を要することから農家の人たちもあまりやっていなかった。

 以上のことが訪問した家の人に聞いた話であるが、しこ名については前にも書いたように、82歳のおじいさんでもしこ名というのはあまり使っていなかったみたいで、役所に届けてある名前で呼んでいた。

 その土地の名前の由来などは知っていたが、そのことに関してはやっぱり年寄りはよく知っていると思った。そのことから今回調査した地域ではしこ名で呼ばれていなかったと思われる。

 土地の由来の話をすると、高縄手という地域は、その昔、龍造寺家の殿様がタカ狩りに来て、その時にタカを土手に追い詰めていたことからタカ追土手と呼ばれ、それがタカノウテイ、最後に高縄手となったという話である。

 現在、農業のやり方もどんどん変化してきている。古老の話を聞いていると、時代の変化を感じさせられた。昔の頃の地主、小作の関係の中で、農業をやっていた頃の苦労はすごいものがあったと言っていた。穫れたものはほとんど持って行かれたそうだ。それから今の姿もどんどん姿を変えて行き、年寄りたちだけが使っているような言葉、やり方などがなくなってきている。これらのことは、歴史の1ページとして記録していくことは大切なことであると考える。

 この昔のやり方をずっと続けていくということは無理な話なので、このままだと農業に従事する人がやっていくことができないだろう。自分たちは農学部だということもあり、農業についても関心はあるけど、進歩することによって農業の発展はあると思える。今記録しているのは、あくまで歴史の1ページということで、これを踏まえての進歩を期待していくべきだと言える。

 最後に私たち3人は、白石町の田んぼを見ながら歩いて、それぞれの家に回ったが、その日は大雨で歩くのも嫌気がさしてくるような状態であった。しかし晴天だったらどんな気持ちよく、河野オタマジャクシを見て、遠くの山を見ながら歩いて行きながら、長閑な気分に浸れただろうと思い、雨だったことを残念に感じる。この度訪問した古老の方には本当に感謝の気持ちでいっぱいだ。嫌な顔一つせず、親身になって話をしていただいたことにお礼を一言言いたいです。



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