【杵島郡白石町中南、只江地区】 中世と村の人々 現地調査レポート 1SC94208 岩切康二 1SC94182 藤井 明 [中南地区] ○しこ名について 田んぼ…ごろうまる(焼き物をつんでいた五郎丸という船が沈んだから)、よこしんがえ、しんがえ、うーやしき(大きな屋敷があったらしい) ほい…ながれぼい しいど…なし 橋…しあんばし、ぼうずばし 井樋…なし
○村の水利のあり方 北方町にやきごめという溜池があり、そこの水を使っている。あとは井戸水を利用している。このやきごめという溜池は江戸時代の殿様がつくったらしい。やきごめの水は、六角川の川底をくぐった直進水路により、白石町北有明地区に流れてくる。 昔は、地下水用の深井戸は部落ごとにあったが、今は校区で平等につくられている。昭和初期は井戸は個人で持っており、深さは8〜30mだった。昭和30年頃、国の補助により、井戸が整備された。 去年の水不足により、8月にはやきごめの水はなくなり、後は地下水になった。この地下水も平等に配られた。しかし、この地下水のくみ上げすぎによる地盤沈下が起こり、今年は7月1日まで地下水のくみ上げが禁止された。水争いはしょっちゅうあったが、雨が降ったらおわりという感じだった。
○村の耕地 中南地区はほとんどが水田で、転作でいちご、れんこん、い草、アスパラガスなどが作られていた。い草は自宅で加工していて、自分でつくった畳で生活していた。収穫された米はすべて農協のライスセンターに持って行くそうである。 ずっと前はほとんど湿田であったが、圃場整備のときには乾田化していた。この村では、特に良く米がとれる田んぼや悪い田んぼはなく、ほぼ平均してとれていたそうである。 戦前の肥料としては、大豆かす、油かす、じゅうかや、なたね、ほしか、貝がらが使われていた。
○今後の農業について 今、ほとんどの農家が兼業農家になってきている。土日や忙しい時に働きに出ている子供に手伝ってもらうという形が増えた。実際話を聞いてみて、後継者の問題は農家の人たちにとって一番深刻な問題であった。農家を継ぐ人がいても、有機農法での理想と、給料や労働時間等の問題があり、なかなかうまくいっていない家もあった。
○話をして下さった方 川崎満男氏 昭和7年生 立花初雄氏 大正12年生 島ノ江秀夫氏 昭和2年生
[只江地区] ○しこ名について 田んぼ…明治がらみ、よしべがらみ、吉野がらみ、大角がらみ、弁財がらみ、太郎がらみ、仕合がらみ、しょうちゅうがらみ、もやがらんがらみ、横手正三がらみ、八反、新田ごもい ほり…ひょうたんぼり、りゅうじんぼり しいど…なし 橋…しあんばし、ぼうずばし 井樋…なし
○村の水利のあり方 ほとんど中南地区と同じであったが、県道44号より東の地域は深井戸のみの使用であった。
○村の耕地 昔はすべて湿田であったが、昭和30年以降ほとんどが乾田になった。只江地区の田んぼは山の中の田んぼのように段差がないから、田によってとれ高が変わるということがなく、平均的に米がとれるそうである。5年ぐらい前までは麦を作っていたが、作る時はうねを高くしてまかなければならなかった。今は湿っていて麦をつくってないそうである。 ※図省略(入力者) 転作は、5、6年前にれんこんをつくっていたが、今はもうやめたそうである。基盤整備で3、4年前から少し大豆をつくれるようになった。い草は1軒のみで小規模であった。
○今後の農業について 農村では、組合自体人不足であり、若い方(訪ねたお宅のご主人)などが、大型機械を動かすが、それも大変な様であった。只江地区も後継者の問題がかなり深刻で、現在46家庭中、3人しかいないそうである。平均年齢もかなり高く、1番若い人で45、6才であった。人がいなく、見通しがないという状況であった。
○話をして下さった方 島ノ江茂春氏 昭和2年生 江口広氏 昭和2年生 坂井安夫氏 昭和14年生 |