【杵島郡有明町久治、白石町久治地区】

中世の村と人々〜久治を訪ねて〜現地調査レポート

1LA94050   大迫律子

1LA94184 西岡扶実子

 調査は自治会長さん宅で、5人のお年寄りと談話形式をとって行った。有明町の久治地区は、白石町に囲まれており、同一地区と思われていた所には白石町久治が入り込んでいる珍しい地区であった。久治は周囲の他の地区と比べて高台にあり、それ故に周囲の他の地区とは水源が異なっている。※図省略(佐賀県立図書館所蔵)

 久治の田園風景は今から1300年ほど昔から施行された「条里制」の名残をとどめている。久治の北西部に突出している地区は日の目(ひのめ)、もしくは小路(しゅうじ)と呼ばれている。他の田のしこ名は、図に示したように日の目の下の東端から「一の角(いちのかく)」「二の角(にのかく)」…というように続き、「二十五の角」まで存在していた。また、特別に、十二の角には「しまんもと」、二十三角には「うんぜんめ」と呼ばれる特別のしこ名があたった。図中のAには、「ありたのつぼ(坪)」が訛ったと思われる「あいだんつぼ」というしこ名があった。図中の斜線部分は、米を稲佐神社に奉納していたらしいことから「いなさだ」と呼ばれていた。橋のしこ名は一の角にあれば一の橋と呼んでいたようだ。また、日の目にある深井戸の近くにある橋は「しんべいばし」と言われている。人の名前からの由来かもしれないという話であった。

 前に述べたように、久治は周囲と比べて高台に位置しているために、他の地区が梅の木溜池を利用するのに対して、白石町と共同で嘉瀬川ダムを利用している。嘉瀬川ダムを利用しているのは、有明町では久治だけである。また、ダムの貯水量が少ないために、クリークがこの辺りでは一番多いそうである。高台であるために、大水になることはないが、水利に関する取り決めは極めて厳しかったようだ。水利の取り決めの規則である「堤方雑記付水方村内規約」は明和6年(1769)に定められている。自治会長さんから本物を見せてもらい、少々驚いた。水に関する取り決めが厳しいために、水争いはなかったらしい。水番(井樋番)の手当は日当で、地区ごとに反別徴収をされて支払いをしているらしい。去年の旱魃の時は、水の取り決めをしているために、水に困ることはなかったが、2本ある深井戸から水を汲みすぎたせいで、地盤沈下をしてしまったという話だった。

非灌漑時期のごみ取りは南北の水路は部落単位で行い、東西の水路は隣り合う耕作者と一緒にやるということであったが、腐葉土の所有権は特に決めているわけではないようだった。

 村の入会山は、白石の久治と共有で所有している。山の名前は「あしかた」ともう一つあるらしいがわからなかった。昭和40年代初期には檜を植林したが、そのうち固定資産税などの負担を避けるために、入会山の所有権を放棄する人もでてきて今は手付かずの状態であるそうだ。

 米の収穫は、戦前での良田では反別8〜9俵収穫できていたそうだ。収穫量にばらつきはなかったらしい。裏作はどの田でもでき、大麦、小麦を栽培している。今では、大麦、小麦も輸入ものに圧迫されているということであった。

 戦前の肥料は、化学肥料や干鰯、菜種・大豆などから採れる油かす、堆肥などを使用していた。戦後になってからは、有機肥料が殆どであるそうだ。

<お話して下さった方々>

 溝上優さん(大正10年生) 大野常次さん(大正12年生) 木須利郎さん(大正13年生) 木須昭雄さん(大正15年生) 木須房人さん(昭和3年生)

 

 久治地区は、溜池をもたず、また、このあたりでは最も高い所に位置しているため、昔から水利に関する取り決めは大変厳しかった。

 

(以下、『有明町の文化財』より引用)

 農民たちは打ち続く天災と人災より如何にして免れるかと言うことでその対策を立て、村民一致協力して堤への加入を果たすとともに水方村内規約を定めた。

 明和六年(1769年)の、堤方雑記によれば、宝暦九年卯十一月に須古嘉瀬川村打ノ巣谷江堤床ができると、一ヶ里は悪田に成るので、船野村の堤へ笠置するように歎願している。すなわち、「当村地元内は、水源無く毎年旱魃仕り、田作相続不相叶倒百姓多亡地相成儀嘆ヶ敷存付左の通り」と記載し、人夫を出し、稲佐山、神納銭三貫匁を借用して費用に充て船野堤の水利権を獲得した。

 

明治十八年六月 水方村内期約簿

 杵島都辺田村合併 久治名

 

 規約内容は次のとおり

 神武天皇紀元二千五百四十五年明治十八年夏六月旱魃の為、衆議の上期約相定居条々

 第一條 毎年梅雨の前、井樋並に井手筋地の、高低に従ひ普請を厳重に施行すべきこと。

 第二條 田方植付の際、一己の便利を量り、高段の堀筋より、水引落作水汲取べからず。

 第三條 晴天打続旱魃と見込、堀筋水笠、水車二挺頃の際は村内協議を逐け、水尺を定め、二名宛の交番を立、村内の田坪を巡回し、水余計の向は光を説諭し、渇水の向は光を報知し、水一同平均の方を注意すべし。

 第四條 既に旱魃と相成堀底、水車二挺と見留の際は、再度、協議を逐け水尺を定め三名宛の交番を巡回し、左の如く懇に、田坪を点検すべし。万一過度の水之有るに於ては、引落し平均すべし。

 第五條 他人の田頭の水を自己の田頭へ踏越するを禁止す。又各自舫の溜り水は踏む者、交代すべし。付自己の田頭溜水は此限りにあらず。

 第六條 村内へ掛作の人々も、此期約に従ふべし、若違背の人は水引落し、車引揚ぐべし。不平均の田坪は、田中に車を以て汲取も若しからず。

 第七條 巡回検査の人より、過度の水引落しの際強情を張り、規約法を崩す人は、盟約に違反人と決定し、村内の交際を謝絶すべし。たとい一時前非を謝すと雖も猥に許すべからず。

 

 この資料は、区長である木須房人さんのお宅に実物が保管してあったので、見せていただきました。もともとは明和六年という200年以上も前のものなので、解読は不可能でしたが、明治頃に書き改めたと思われるものもありました。規約の条文の後には村の人々の名前と印がありました。これらの資料の内容を見るとわかるように、水に関する取り決めは大変厳しく、それは現在まで続いている。戦後においても、水を汲み上げてよい田には区長の印が押された白い旗をたて、水が余分にある田には赤い旗をたてて知らせる、というようなことが行われていたらしい。また、水を田に汲み入れるときも「一寸汲み」、「五分汲み」などと段階を決めて行われ、水役をたてて、水尺でひとつひとつ水位を測ったのだそうです。去年の水不足の時には2つの深井戸から水を引いたのだが、どこの田から水を入れるか綿密に計画を立て、水番を決めて1週間に5回ほど水尺で水位を測り、水の量を調節したりと、たいへん苦労をしたらしい。そのおかげで水不足にもかかわらず大豊作だったそうだ。しかし、井戸のない他の地区ではそううまく行かなかったであろう。

 

 この地区でも減反が行われている。個人で減反をしても政府からの補助金が微々たるものなので、集団減反をしている。そのため、個人で減反をしている家でも、集団減反で割り当てられている分はしなければならない。しかし、いくら減反をしても補助金が少ないので最近はあまりしないという傾向にあるらしい。

 また、他の問題点としては、米・麦作だけではよほど大きな規模でつくらないと割に合わない。農業機械(田植え機、トラクター、コンバインなど)の値段が高く、なかなか利潤があがらないということがあげられる。さらに、深刻なのは後継者問題である。昔はこのあたりは全て農家であったが、最近は兼業農家が増え、非農家も何軒かあるらしい。若い世代が外に働きに出ている為、お年寄がまだまだ農作業をしなければならない。農村に嫁に来る人が少ないということも関係して、大変な難問となっている。このままでは農家が激減して、米の自給自足ができなくなる日が近く来るかもしれない。昨年の輸入米問題を教訓に、日本政府は早急に対策を練らなければならない。



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