【杵島郡白石町大渡、喜佐木地区】

現地調査レポート

SU-31 1AG94257 山口直子

SU-30 1AG94208 藤井優寿

○田ん中のしこ名…地図に記入(村の古老も昔のことなのでほとんど覚えておらず、そうういことに詳しい古老も亡くなっていなかった。)

 

○村の水利のあり方

 水田にかかる水は焼米水路と杵島水路から引水。

  焼米水路…焼米ダムから引水

  杵島水路…朝日ダム、永池ダムから引水

 用水は他村と共有。配分に際しては今と同じ時間制限があった。過去の水争いとしては、下流(水路)の村が上流の井樋にかぎをかけるなどがあったが、特別にどこかの村と争うようなことはなかったそうだ。

 

○淡水(あお)灌漑について

 6月〜7、8月の3ヶ月間ぐらいに行う(今年の6月(田植え前)もとった。6月12、13日)特にどの日に行うかは決まっていない。(塩分のないときに行う。)時間は1回2〜3時間ぐらいで1日に2回とる。六角川の井堰からとる。部落の役員、井樋の責任者、立会人を含めて約10人でとり入れた。井樋番の手当ては部落の年度末生産から、米2俵ほど出た。

 非灌漑時期のゴミとり(ここでは、ごみつきという)

 かたづけ賃を部落が出す。ゴミは田ん中に入れる。

 

○1994年(平成6年)の水対策について

 あお(淡水)を入れた。

 自家用の井戸水をとった。

 もらい水、犠牲田の設定などはなかった。

 去年の旱魃が、もし30年前の出来事であったならば、今より厳しかったと思うそうだ。昔は個人のポンプで川から水をあげていたので、今よりもっと作物がかれたと思うそうだ。

 

村共有の山林は3ヶ所ほどあったそうだ。(地図記入)

 

○村の耕地について

 特に米がよくとれるようなとき、逆にあまりとれない田ん中があったということはなかった。場所による差は、日の当たらない山つきが悪いそうだ。

 戦前の良い田では10俵、悪い田では7〜8俵とれたそうだ。(1反あたり)

 戦前は、個人で堆肥作りをしていたそうだ。

 

○村の姿の変わり方、今後の日本農業への展望

 昔より、今の方が米がとれない。若者は仕事に出ていき百姓をする者はいない。農業が機械化され、手間がはぶけるようになって、1人で多くの田を扱えるようになってから、土地(田ん中)が足りなくなったそうだ。これからの農業は、機械化され、少ない人数でもできるようになり、機械を一緒に使うというメリットなどから集団化するであろうと言っていた。

 

東島風一さん(昭和5年生まれ)にお聞きしました。



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