【杵島郡白石町築切、遠ノ江地区】 中世の村と人々現地調査レポート 1SC94177 野田信之 1SC94205 井上 心 築切地区の圃場整備前のしこ名や水路などについて 藤井忠夫さん(大正8年) 藤井シズエさん(大正10年) 江口虎夫さん(大正8年) の3人の方に以下のことを聞いた。
1、しこ名について 築切 字一本杉…すんだしゅうじ しも一号 かん(み)しゅうじ 二号 たじましゅうじ 四号 字二本杉…どうめい 字三本杉…きらあげ 字一本黒木…かん(み)しゅうじ 二号 字二本黒木…はったんしゅうじ 三号 たんなかしゅうじ 字一本松…はちのわり 字一本谷…にのこもり おきしゅうじ 字長右エ門搦…ちょうえもん 字源右エ門搦…げんえもん 字四本谷…いちのこもり 字藤兵エ搦、字卯兵エ搦、字卯兵エ外搦…ろくちょうえご
遠ノ江 字四本松籠…とうのり(い)かみ→とんのり(い)かみ 字谷籠…とうのり(い)なか→とんとり(い)なか 字一本柳…とうのり(い)しも→とんのり(い)しも 字三本杉…たいばるかみ 字四本杉…たいばるなか 字一本松〜字四本谷…たいばるしも 字新観音…はちけんいえ 字満江搦、字本搦…とんのりがらみ
他 只江川…ただえ、ただえご 満江川…みちえ、みちえご 沈地堀…圃場整備前はただ、“ほり(い)”と呼んでいたが、今では“じちんぼう”と呼んでいる。
2、水利について 圃場整備前 只江川から川向こうの横手へ2割、築切へ8割の水を引いていた。これは時間給水によるもので、築切が3分の2、横手が3分の1の時間の割合で交互に引いていた。その後、井戸(通称“さくい”)を30数年前から設置されはじめ、現在では12のさくいが築切にはある(地図に指してある) 水上げポンプによる地盤沈下、せまい堀のため年4〜5回は床上浸水など問題点が多かった。水争いはなかったらしいが、昭和33年、4km程離れた“須古地区”へ消防ポンプで援助した。
補助整備後 1つのポンプで7つ程度の田に水を入れている。只江川から“じちんぼう”へは横手、築切の間では同時給水。また、この圃場整備による道の整備で、田は一反(約10R)当たり1、2R程度削減された。
3、旱魃について ・昭和9年“じゅうぜん”の旱魃のとき 13台の発動機を作動させたが時間で15分、田では3反分の水しかくみ上げられなかった。結局、その後雨が降り、どうにかしのげたものの1反で3俵半しか収穫がなかった。犠牲田は出ず、水が少ない田を優先して水を入れていった。 ・平成6年未曾有の旱魃のとき 残水を利用し、ポンプをフル活用し地下水をくみあげたので、大被害には及ばなかった。
30年前におこっていたら、乾いた田をくわなどでたいらにならし先のとがったもので土に穴を開け、稲を植えていっただろうということだった。これは実際、昔されていたそうだが、あまり有効とは言えないとのことである。
4、耕地について 築切はもともと干拓地であるが、特にひどい乾田、湿田はなく、水にも恵まれた土地であったらしい。ただ水はけはあまりよくないのか、水路の少ない字長右エ門搦から東の土地は、旱魃のときは水不足、大雨の時は水がひかず、大変だったらしいので、ここでは通常1反で8〜9俵とれるところが6〜7俵しかとれなかったらしい。 全体的に土地は低いので、水源地が出来るまでは堀の水が溢れて大変だったらしい。やはり只江川に近い方が水はよくまわり、よかったらしいが、どこも差はなかったらしい。裏作については、どの田も出来たらしい。干拓ということで、塩が何らかの影響を与えているのも考えられたが、これは特別問題にならないようで、井戸から塩水が出たという話は聞いたことはあるが、実際に見たことは誰もなかった。
5、築切、とくに西分地区は、今まで旱魃なども比較的上手く乗り越えてきたらしく、水不足の昨年も犠牲田を出すこともなくほどほどの収穫は得られたようである。ただ干拓地のため土地が低く、今年のように雨が多く降ると村のあちこちで家の前に水がたまっていたり、用水路があふれている光景がみられた。 圃場整備以前より、そういった被害は少なくなり、第一に機械が有意義に使えるようになったため、田植えなど、一週間〜10日程かかっていたところが2〜3日で終わるようになったらしい。現代の農業に適せるようになったものの実際は過疎ぎみで、話を聞いた方の息子、娘夫婦はいずれも福岡に在住しているということだった。 |