【杵島郡白石町神辺地区】

現地調査レポート

1AG94033 江藤美穂

1AG96026 内田真弥

1AG96008 池永直樹

土井静馬さん 大正5年生 80才

神辺

田畑

一ノ坪、二ノ坪、サノツボ(三ノ坪)、四ノ坪、五ノ坪、六ノ坪、七ノ坪、八ノ坪、九ノ坪、十、十一、十二、ジュッサ(十三)、ジュッシ(十四)、十五、十六、十七、十八、十九、二十、二十一、二十二、二十三、二十四、二十五、二十六、二十七、二十八、二十九、三十、三十一、三十二、三十三、三十四、三十五、三十六、キリチ(切り地)

ジュシボイ(十四堀)、ミュウトボイ(夫婦堀)

 

土井さん 昭和16年生 55才

神辺

田畑

28の坪、27の坪、一の坪、二の坪、三の坪、12の坪、11の坪、10の坪、20坪、穴町、中通り、水町

 

<昭和4年生まれ 67歳>

1、岡崎と神辺の範囲 字岡崎…地図でオレンジに塗った個所。

           字神辺…地図で緑に塗った個所。

  ※岡崎は日常的に使用した小地名(部落名)で現在も地域の行政や生活上の一共同体として集落の単位として存在する。地図は佐賀県立図書館所蔵。

 

2、古道 古老の記憶によって記入することは出来るが、現在は実在しないので線引きは困難

 

3、しこ名

 田畑 公的な(小)字名は、地図に赤丸で囲って記入した通り。しかし、圃場整備後は岡崎、神辺の2地名に統一された。

 しいど(水路) 地図に青線を引いた個所。圃場整備後の水路。

 橋 橋名はない。

 

4、水争いについて

 この地域(白石平野全域)は、水源が乏しい(背後地が山が浅いので)ので、地域の農業用水を供給するについて絶対量が不足している。上流に大小10個の湧池が唯一の水源でここから需要期の稲作用水を配水するのであるが、旱天が続けばただちに不足することになる。

 少しでも効率的に配分する為、地区別(各部落別)にその地区の持分(用水権利)に比分して湧池から流す水量を100の需要(要求量)に対し、例えば半分とか3分の1とかに分け地区毎に分配する。これを「計画配水」という。

 従って充分末端に行き渡らないので農民の不満はあるが、これの計画配水を司る水利組合(土地改良区)が厳正で強いリーダーシップを取っているので、現在では水争いやトラブルはない。しかし、昭和30年以前、大正、明治と遡れば水争いの事例は少なくない。過去に流血の争いもあったとある。いずれも旱魃年の水不足に起因するものであると思われる。主として取入堰の開閉のトラブル(定められた時間に早く開けた、早く閉めたとかいうもの)や盗水行為によるもの、高低地の水利調整(水くばり)が不十分であった為、水が届かず部落間あるいは個人間で不満が募り後々まで尾を引いたといった事などである。

 又、過去においては個人の「競争汲み」といって各集落の水路に溜池から水を引き終わって、水路に貯留した水を各農家(個人)が区長の合図(鐘)で一斉に汲み出すわけであるが、瞬く間になくなり、揚水量も個人差・不公平が生じた。これら昔の語り草であるが先人達の苦労が偲ばれる。

 要するに当地帯の泣きどころの慢性的用水不足地域において、この乏しい水資源をどのようにしてうまく活用するか水争いをしないで済むようにするか地域全体がいままで奮心していまだ問題であり、現在も解決されていない。水源開発(嘉瀬川ダム)という課題に取り組まれているが…

 今ここで水争いの事例を書けとあるが、実際の原因とか状況とか複雑であり、争いの最中で降雨があれば雲散霧消する例もあれば些細なことでも当事者間で怨念が残ったという例もあるので、どれか事例を提えて記述することは簡単にできません。水争いの原因は前述のとおりでありますので、参考にして下さい。

 

<昭和16年生まれ 55歳>

・水争いについて

 1、夏に稲を作る際に水が不足した時に時間を決めて競争して水を揚げていた。(田に入れる)

 2、田植えの際に水不足した場合は、耕作面積の何分の1というように歩作りをしていた。(この場合は検査員がいた。区長と水利役員)

 3、井樋ごとに水を使う田(用水をくむ田)が決まっていた。それ以外から水を揚げていた時に争いが起きていた。

 

<神辺の土井静馬さんからの手紙>

 要件のみ。

 御送付頂いた地図が小さくて昔の道路がわかりませんので地図作製の原図がありましたのでそれに坪を書いておきます。貴女の地図に赤枠をしていますが、当地方の条里制の名残です。圃場整備で全くかわらなくなりましたが、現在部落民の話の途中に出ることは、三ノ坪(サノツボ)現在内野敏之氏宅をサノツボという。二十三坪(ニジュウサン)現在林鶴雄氏宅をニジュウサンといい、あと水田の位置を数でしめす。発音の違うものは十三(ジュッサ)、十四(ジュッシ)、現在は農道になっているが東氏の裏の川を十四堀(ジュシボイ)と発言。

 切り地は夫婦堀(ミュウトボイ)を中心にして南北十間位と思う。須古村の中に六角村が入って須古村が二つにわかれ、神辺・馬田両部落が須古村飛地となっていた。誰の時代かよくしりませんが、須古の殿様と佐賀の殿様と話し合って切地と久治と交換したそうです。水利の関係らしい。

 馬田神辺は嘉瀬川堤、永池堤と朝日ダムで何とか水利はよいようです。昔は若気の至りで水泥棒もしたそうです。水番を川に投げ入れ、そのあがる間に土俵をとめた竹をひきぬいて、下の土俵に縄をかけて下から水を盗んでいたそうですが、今ではそんなことはできない堰になりました。

 大旱魃の時は、白石北明の地下水をあげ、それをポンプアップしたこともありました。条里制のあとかたとして川道路がありましたが、今は全くわかりません。

 もしお役に立てたら幸いに存じます。

土井静馬

大正五年生

八十才の老人



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