【杵島郡白石町船野、内堤地区】

中世の村と人々 しこ名調査レポート

1AG94058    小倉 有紀

1AG94060    鬼束 愛子

1AG94063  鹿子島真由美

 

 初めに内堤から調査を行った。内堤の生産組合長である香田博之さんの家を訪ねた。出てこられたのは香田さんの奥さんの方で、事前の手紙としこ名調査の由を説明したところ、奥さんは事前の手紙のことをご存知でなかった。しかし、しこ名調査には快く協力してくださった。

 まず、地図を見せて、内堤の境界を教えて頂いた。地図中のオレンジの線がその境界線である。次に田んぼのしこ名を尋ねたところ、「うらしいどう」と「うしだ」、「むた」という3つの名前を教えて下さった。「うらしいどう」、「うしだ」は地図中の黄色で塗りつぶした部分である。「むた」とは内堤の西側、船野辺りの田んぼのことを広く総称したもので、境界線は特定できないという。他にもしこ名がないか尋ねたが、これ以上は御存知なかった。

 奥さんの話によると、地図中に「隆城跡」とあるように、内堤一帯はその昔、城下町であったという。地主の屋敷やろうや、武家屋敷などがあったそうだ。その武家屋敷のうち2、3軒は今も残っているということだったので場所を教えて頂いた。地図中のピンクで塗りつぶした部分がそれである。次に、「あまり詳しくは知らないけれど…」といって教えて下さったのだ、お城のお姫様が住んでいた場所で、そこを「おへや」と呼ぶのだそうだ。地図中のピンクで塗りつぶした部分がそうである。(地図は佐賀県立図書館所蔵)

 水路のしこ名を尋ねたところ、須古小学校の横にある堀を「じょうほり(城堀)」と呼ぶのだそうだ。昔、城の周りにぐるりと堀が廻らされていて、その一部であったのでこう呼ぶそうだ。他の堀は、今はこの「じょうほり」を残してすべてつぶれてしまったという。

 次に、村の水利のあり方について尋ねた。この辺り一体の水はすべて嘉瀬川の堤から引水しているということだ。嘉瀬川の堤は船野の西側にあり、地図中にも載っている。水路から水田への引水は、昔は、あぜ道にビニールホースを何mもひいてポンプでくみ入れていたそうだ。そのくみ入れる時間帯は、それぞれの田んぼに割り当てられており、香田さんは夜の2〜3時頃に引水していたそうだ。しかし、現在は電動モーターで引水しており、自分の田んぼに引水してほしいときは、モーター小屋に自分の田んぼの番号と名前の書かれたかまぼこ板をかけておくと、当番の人がモーターのスイッチを操作して引水してくれるそうだ。

 去年の大渇水では、内堤はさきほどの嘉瀬川の堤にすべて水源をたよっており、井戸のある外の部落と比べて、嘉瀬川の堤が枯れてしまった内堤は、収穫ゼロの農家もあったという。収穫の激減した農家には国の援助がわずかにあったが、ほとんどの農家が兼業農家なので、農業以外の収入で埋め合わせたそうだ。

 

 次に船野の生産組合長である光吉隆雄さんのお宅を訪ねた。そこで光吉さんがこの辺りの歴史に詳しいという栗山善夫さんを紹介してくださった。そうして嘉瀬川の堤の近くにある栗山さん宅を訪ねた。

 まず、田のしこ名を尋ねたところ、香田さんの奥さんに教えて頂いた「むた」というのは正式には「ひゃくちょうむた」というものであった。「ひゃくちょうむた」というのは、昔、隆城を山からの攻撃から守るために城と山の間に百丁の広さの土地に水を引いてひざまでつかる程の深さにしたそうだ。現在の県道綿江・大町線より西の馬洗・船野一帯を総称して「ひゃくちょうむた」という。

 また、「でえした」、「みっとさき」、「じっこうわん」、「おおてぼい」、「いっけんぼい」、「べんじゃだ」、「すわだ」、「いたいで」というしこ名を教えて下さった。これは地図上に黄色で示してある。

 まず「でえした」という語源は嘉瀬川之堤の西側にあり、堤の土井下にあることからきている。つまり場所を指しているのだ。「つつみのどいした」というのを「つつみんでえした」といい、これを略したものである。「みっとさき」は現在、県道綿江・大町線と、県道久間・白石線の交わるところ周辺の田のことをいう。戦国時代に川の水を板でせきとめるためにこの場所に塔をたてたが、この塔の板のことを「水戸」といった。水戸の鼻先にある田という意味から「水戸先」という名がつき、独特のなまりから「みっとさき」となった。「べんじゃだ」とは、近くにべんざい天をまつった神社があったことからきており、べんざい天の祭りが毎年その地で行われていたことから「べんざい田」からなまって「べんじゃだ」となった。「すわだ」とは、確かなことは分からないらしいが、すほう神社がそこにあったことからきているらしい。

 また、田んぼのしこ名ではないが「じっこうわん」というのがあり、別名「ずいこうわん」という。その昔、そこには寺があって、その寺に湧き水でできた池があり、その池が湾のようになっていたため、この名がついた。その寺はなくなって家だけが残っていたが、現在ではこの池も埋めたてられている。

 「いっけんぼい」、「さじっけんぼい」、「おおてぼい」というのがあるが、昔隆城の周りに一間幅の堀と、さらにその外側に三十間幅の堀があったことからきている。また、おおてというのはそこにあった城下町の名前であるそうだ。

 次に、橋と道のしこ名を聞いた。橋の名前には「いたいで」「二十五の橋」「一の橋」があった。「いたいで」は「板入れ」からきており、その昔、この場所に木の柱を立て、そこに板を入れ、水をせき止めていたという。「二十五の橋」、「一の橋」は、昔の条里制の名残で、そこに「二十五の坪」「一の坪」という田があったことからきている。道のしこ名には、「ろくちょうのうて」「はっちょうばば」「きしまんばば」というのがあった。「ろくちょうのうて」は、地図中のオレンジの線のことであり、道の長さが6丁あったことからきている。「のうて」は縄手がなまってのうてになった。「はっちょうばば」は現在の県道綿江・大町線のことであり、やはり道の長さが8丁あったことからきている。「きしまんばば」は杵島神社に通じる道であったことからこの名がついた。

 また、船野では谷から流れていた水のことを、「みとき水」といっていた。その名の由来は、殿様から許可された水を引く時間がみとき、すなわち6時間であったことにある。船野は昔田を条里制に基づいて区分していたため、今でもその名残が残っており、特にしこ名はないとのことでした。



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