【杵島郡白石町江越、吉村地区】 中世の村と人々 現地調査レポート 1SC94281 表迫美雪 1EC94287 川原江里子 1EC94311 毛利亮子 テーマ 1970年代から90年代にかけて、日本の農村では圃場整備事業が多く行われ、機械化農業に適合した大型水田への造り替えがなされた。その結果、牛馬耕の歴史に等しい1,000年ほどの歴史を有する旧水田も消滅したのである。こうした長い歴史をもつ旧水田には様々な地名が付いており、複雑な水利慣行が形成されていた。これらは歴史資料として重要であるが、消えるに任されているので調査して記録しよう。
聞き取り方法 マイクを付けてもらって、こちらが質問し、いろいろしゃべっていただくという方法をとった。その時のテープも提出しています。計3本。
白石町江越土井力雄さん 50歳 白石町にはたくさんのクリークがあるが、それが全部白石町のものではない。水利権というものがあり、(それは昔からのもので、圃場整備事業後も続いている)上流の村の水も流れている。それについては資料@を参照して欲しい。それぞれの場所については「有明海岸保全事業概要書」へチェックを入れている。 私たちが話を聞かせて頂いた土井さんの家の前から水堂(みつどう)さんまで一本道が続いており、ここは水堂さんへ水をもらいに行く人々で賑わったという。土井さん宅も、もとは出店などが並んでいた場所であった。水堂さんとは純水が湧き出ている場所で、夏にはお年寄りが水をもらいに行くそうだ。 この辺りはすぐ水に浸かるが、神社や仏閣は島のようなところに建てられており、沈むことはないそうだ。
・ 1994年の大渇水について 渇水時は村にある4つのポンプで水を汲み上げていた。ポンプは4インチ(約10cm)で深さ20m位である。毎朝班長が見回り、水が涸れている田に水を入れる方法であった。この方法だと約2週間に1回しか回ってこない。 江越はポンプが稼働したため豊作であった。だが、吉村はポンプが故障したため、水が回らず不作であった。しかも、吉村は江越よりも土地が高いため、ますます水が回らなかった。 しかし、地盤沈下がこの土地の問題である。収量が収入につながる農家にとって、背に腹はかえられないので、ポンプで水を多量に汲み上げた結果、地盤沈下がおこるのだ。 以下「地盤沈下のおこりかた」の図。(省略) 上の図のように杭が出て1m程低くなるのである。山端の家などは、ほんの数年で家が傾くほどである。
白石町吉村木須永二さん(昭和2年生まれ) 樋渡澄雄さん(昭和5年生まれ)
・この辺りで作っている米は? A 七夕コシヒカリ(旧暦の七夕ごろに収穫) ヒノヒカリ(早稲、晩稲)。早稲は去年の渇水の影響をほとんど受けなかった。 ・去年の渇水について A 吉村は白石平野でも干魃のひどい所だった。 原因 地下水の井戸が故障した。 他の所より60cmほど高いため、水がなかなか来なかった。 1反当たり2〜3俵しかとれなかった。 ・昭和60年代の米作り A 肥料は自家配合だった。 6人一組ぐらいのグループを作って競争させた。 肥料と灌漑で1反当たり12俵とれるようになった。 全国1位の収穫が得られた。 それ以前は田によって収穫高に差があった。 ・字に「谷」が付く所は収穫高が高かった。 ・字に「杉」が付く所は収穫高が低かった。
字銀沈下について 吉村には180〜200の井戸があり、地下水を汲み上げると失われた水の分だけ粘土が縮んで沈下してしまう。橋などが浮いたりしてしまう。
水利権について 水は永池と朝日ダムから引いている。土地が高いため、(昔は1kmで1mくらい。圃場整備以後は10cmぐらいの高さの差がある)水の競争が激しかった。水利権の方は圃場整備以前と変わっていない。
乾田について 吉村はほとんど乾田である。しかし、低い一部の地域のみ水田である。水田と乾田の裏作の違いは下の図のようである。 <乾田>と<水田>の図 畝と水について図示。 ・水田は植えるものは麦との注記アリ。
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