【杵島郡江北町大西、東区、南郷地区】

中世の村の人々レポート

1PS94002 赤木 貴則

1PS94006 伊地知順子

1PS94019 吉舎 史見

1PS94028 坂田 佳代

<大西>

聞き取りの方法

 生産組合長の大隅秀雄さんに話を伺う予定であったが、大隅さんが村の祭りで忙しいということで、坂井渉さん(大正17年生、73才)を紹介していただいた。坂井さんにはしこ名をはじめ、水利、色々な意見を伺った。

 

しこ名

 大西では現在は、しこ名はほとんど使われていない。小字が主に使われているそうです。

 

水利と水利慣行

 観音下の山麓にある、はた川と呼ばれる溜池から水を引いている。この溜池は、大西、南郷、東区の3部落と、観音下の一部の地域で使われている。配分に際しての特別な水利慣行としては、それぞれの部落から2名ずつ水利委員を選出し、会議を開いていつから水を落とすかなどを決める。水おとしは時間制で、水を落とす時間の長さは、耕作地の広さに比例させる。水争いは、昔は結構あったらしい。大西は、現在ではあおは使用していない。これは、あおをとり入れる責任者がみつからないためである。

 

1994年(昨年)の特別な水対策について

 昨年の災害はひどいもので、大西では7〜8割の収入減であったという。対策としては、水をおとす時間を制限したり、共済金で対応したりした。共済金の保証をうけるには、植えつけをし、しろかきは絶対しないといけないので、犠牲田はださなかった。水は、散水車を使ったり、タンクを使ったりして、あちらこちらから運んだ。井戸を掘った人もいた。もし、あのような大渇水が30年前におこっていたら、集会を開いて、水を大切にしようという話し合いくらいしかできなかっただろうが。被害は、去年と同じように大きなものであっただろう。

 

村の耕地

 今は、水を共同で使うようになったが、以前はそうではなかった。下にいけばいくほど水が少なくなり、これは自分の水だとみんなが主張して水の取り合いになり、水がなくなる田もあった。あげた付近のように、ほりが田ごとについていないところもあった。かんのごもりあたりは良い田であった。そこでも戦前に収穫できたであろう量は、よくても8升程度であったろうと思われる。戦前使っていた肥料は、大豆肥料、しめかす(魚の油をとったもの)、堆肥などである。国の奨励で堆肥小屋も作っていた。

 

その他

 あとつぎ問題

農作業が嫌いな子供に無理に押し付けられないし、体の弱い子にも、この職業は無理だと思う。また息子が家業をついでくれても、嫁がきてくれないのではないかなどの心配がある。機械をとり入れるにしても、人がいるし、お金がかかるので、後まで続くか心配である。この問題の解決法は、なかなか見つからない。ただ、もっと安定したきつくない暮らしができるようになれば、よくなってくるのではないだろうか。

 稲作農家について

昔は100俵でもいい生活ができたが、現在では200〜300俵でも、あまりよくない。米以外のものをつくったほうが安定するのではないかと思う。自分の出来るだけの範囲で米+他の作物の方がいいのではないかと思う。

 有機米について

麦の収穫が終わってから米にとりかかると、ちょうど梅雨の時期となり、雨の中で有機肥料を散布するのは、とても大変である。麦をつくらなければ、春から米にとりかかれるので、有機米もできると思う。

 

 

<東区>

聞き取りの方法

 生産組合長 高倉重利さん宅をたずねたが、重利さんがお留守ということで、山中信義さんをたずね、いろいろ聞き、高倉さん宅にもどり、重利さんが帰られたので、重利さんにもしこ名、水利のことなどたずねた。

 高倉重利さん(昭和9年生)

 山中信義さん(68歳、昭和2年生)

 

しこ名

 しこ名は地図に示した通りである。川に流れ込む小さな川をえごといい、その一番最後ということで「しえいご」というしこ名が田についたそうである。昔は六角川が古川のところをまがりくねっていたので「からず」というしこ名のところには船がついていた。

 

水利と水利慣行

 東区の田の水は観音下にある溜池のはた川から引かれている。下のつつみと上のつつみがあり、下のつつみの水は東区、大西、南郷で分け、上のつつみはその3つと観音下で分ける。

 水の分け方としては、地区ごとに水利委員2名を出し、協議していつから水を落とすかなどきめる。水利委員は交代制となっている。また耕作面積により時間をきめて部落ごとに平等に分配するようにしている。

 40年くらい前までは、六角川のあおをとっていた。その時は米中心で野菜はあまり作っていなかったが、野菜を多く作りはじめる人が増え、あおに塩がまじっていて、害が出るということであおを取らなくなったそうである。

 

1994年の渇水対策

 特別な水対策としては、渇水対策委員として10人の水利委員をつくり、割り当てをいつもの何割というようにし、時間的にも短くした。見張りをたてて、きちんと決められた割合までしか水を入れていないかということも見ていた。それでも水をまわすことのできない田もあり収穫高0というところもあった。

 

村の耕地

 圃場整備以前は、湿田や乾田があった。とくに川岸のえごなどは湿田で裏作などはできなかった。戦前の収穫高としては良くても8升くらいだったものと思われる。戦前から流庵などの化学肥料も使っており、その他に堆肥、牛糞なども使っていた。

 意見などは次に訪問するところの時間の関係で聞くことができなかった。

 

 

<南郷>

聞き取りの方法

 生産組合長 小林幸男さん(55)をはじめ、長老である副島昇さん(72)、武富勝秀さん(73)、武富正臣さん(54)の4人に、公民館にて話を伺った。しこ名や水利、前年の水不足のことや後継ぎの問題等を質問させて頂いた。

 

しこ名

 田ん中や橋、堀などのしこ名を教えて頂いた。これは地図に示したとおりである。 (地図は佐賀県立図書館所蔵)。赤で示されているのは、田ん中のしこ名、青で示されているのは堀、橋、川、井樋のしこ名である。(南郷では井樋とは言わず、「まねき」と呼んでいる。昔は木でできていて、完全に塩水を遮断できなかったので、「塩あそび」と呼ばれる塩分をこし取る土地が井樋の近くにはあったそうだ。)

 南郷では、東区や大西に比べて圃場整備が遅く、今でもしこ名で呼び合ってる人もいるらしい。主に「〜の田ん中は○○」と、持ち主の田んぼごとにつけている(と感じられた。)

 

水利と水利慣行

 私たちは、東区、大西、南郷の3ヶ所を調査したが、3ヶ所とも水利に関しては非常に似ており、引水用の溜池も同様に「うえのつつみ」「はたがわつつみ」という池を利用している(地図参照)。池からは天井川になっている川を通して村に水を送っており、その用水路も3区兼用であるので、水利権の獲得は、今でも大きな問題となっているらしい(昔から「観音下」と呼ばれる所が水利権を持っており、頼まないと水を流してもらえないとか。また、3区の間でも、農業用水入水時間に差があり、干ばつのときなど水でケンカをすることもあったらしい。)

※大西12時間、東区11時間、南郷10時間

また、南郷では、周囲を流れる河川、六角川からは水は取ってないそうだ。

 ところで、南郷は昔、自然の川の流れで用水をまかなっていたが、杵島炭坑で途中の土地が低くなったため、今ではポンプアップしなくてはならなくなったそうである。その他は「東区」参照。

 

1994年の渇水対策

 近隣の村はかなりの大打撃を受けたらしいが、南郷では深井戸があったので助かったらしい。

 

村の耕地

 28年前までは湿田が多く、馬や牛などを使って田を耕していたそうだ。現在では、全部の田が乾田であり、二毛作もさかんに行われているとのこと。また、南郷ではきゅうりや白菜等の野菜や、いちご、レンコン、花など多彩な農作物を栽培しているそうである。

 圃場整備前の田の良し悪しであるが、南郷ではほとんど同じ程度で、戦前は平均7俵、現在では9〜10俵の米が取れるらしい。

 肥料は、戦前では堆肥や魚粉、大豆のカス、緑肥等を肥料として使用していたが、現在では農業の発展の一環として、有機農法の見直しがされているので、昔のような肥料を使用して米作りをしている所もあるらしい。

 

南郷の歴史

 この地区は、700年ほど前は新村とよばれ、下区と名を変え、現在の南郷という名になっている。若者の百姓離れが進む中、後継者の問題も深刻で、25人中2人しか後継者はいないという。これからは、少人数で広くの農地を扱う大規模化、野菜・果物もつくっていく多角化と、これからに向けての対策にも試行錯誤の状態であるようだ。



戻る