【杵島郡江北町西分、東分地区】 中世の村と人々レポート ST-13 1TE95719■ 田崎剛史 ・江北町の歴史 昭和初期(元年〜5、6年頃まで) 佐留志村、山口村、小田村の合併で江北村から江北町となる。石炭の採掘が行われていた。 ・しこ名 新田(アラテ)……アラタがなまりアラテになった。鍋島藩の成富兵庫が畝を田んぼに開拓した。 長田(ナガオサ)……昔一般に田んぼは10m〜20mぐらいの短いものだった。しかしここ一帯は幅が狭く長い田んぼがあった。 ショーキャー……ショーケ(竹ざる)のように水が漏れていた田んぼでショーケがなまりショーキャーになった。 離地(ジョウチ)……大西という土地の中で東区をへだて大変遠い所にあった。 更井(サライ)……もともとの山水だけでなくさらに井戸水(出水)があった。 浦井越(ウライコシ)……更井の残り水をもらっていた。 鳥々(トイトイ)……野鳥(きじ、かちがらす等)の王国だった。 上屋敷(カミヤシキ)……位の高い武士の家がそこ一帯にあった。 五反田(ゴタダ)……一枚で五反の田んぼがあった。 馬場(ババ)……小さな城があり野武士のしいく場だった。 波地(ナミチ)……波打ち際(浜辺)だった。 カンカン石……キセルを石にカンカン鳴らして休憩していた。 八町(八丁)……下図参照。 昔) (地図省略:入力者) 現在) (地図省略:入力者) ※昔六角川は蛇行していたため江戸時代侍が治水工事でまっすぐにつなげた。一丁…98m。 望州(ボウシュウ)……早く陸地になった。 ・その他 八町は六角川の治水工事によって白石町から江北町に変わった。有明海は日本でも有数の干満の差がひどい所で、井堰、樋門が発達している。また行政は、昔は横に区分していたのにここでは縦に区分した。なぜなら水利権は取水排水両方考えなければならず村の繁栄のため縦の区分にした。 |