【杵島郡江北町八町地区】

中世の村と人々レポート

ST-13 礒部貴志

      川口昌宏

      久保浩規

 

 (佐賀県立図書館に地図所蔵)

 八町は昔、白石町に含まれていた。しかし、300年ほど前に村長が古川のまわりこんでいる川筋をまっすぐにつなぐ水路を作ったため、白石町とは大きな川で境界ができてしまったため、便宜上八町はその時から江北町に含まれるようにした。

 そして町の名の由来は、古川をまっすぐにつなげた水路の距離がちょうど8丁だったことからその名が付けられた。

 八町は3回の土地改良をすすめてきた。その1回目は昭和18〜19年の第1回農地改革である。この時住民は手作業で川や沼の整備を行った。2回目は昭和29年から約5年間続けられたマッカーサーによる第2回農地改革である。この時は井戸の作成を手がけた。3回目は昨年に終了したが、それは地盤沈下のためにせざるを得なかった改良である。

ここでなぜ地盤沈下がおこったのかを説明する。白石平野はもともと「日本一の軟弱地盤」と呼ばれていた。日本の平野はどこでも同じであるが、白石平野も付近の山から貝や魚の骨が見つかったことからわかるように昔は海だった。そして平野はドロドロの砂(泥)でできあがった。(このような土地を八町の人は潟(ガタ)と呼んでいた。)白石平野は表面では溜池などを作らなければいけないほど水利が悪かったが、地中では普通の平野より水を含んでいた土地だった。そこで干ばつなどで第2回農地改革のときに井戸をつくり、多量の水をくみ出した。その結果、地盤をつくる大きな成分をしめる水分がなくなったため地盤は沈下したのである。

 農地解放により1戸あたりの農家はある程度以上の土地をもつことが禁じられたが、現在は後継者不足のため高齢にある人は仕事が続けられず、やむなく仕事のできる人に土地を譲らなければいけないので、また大地主のような存在ができつつある。そして、やはり専業では暮らしていけないため今はもっぱら出稼ぎが多く、八町にある48軒の農家のうちでも専業でやっているのはたったの1軒である。

 国は農業人口が少なくなった分、機械化を大々的に進め「アメリカ式の農業」のやり方にせよ、と言っているが日本の土地上、それはやはり無理がある。日本の農業は今から解決しなくてはならない問題が数多く残っている。



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