歴史と異文化理解Aのレポート

東 亮介

芦谷 竜門

八の折

´95 122日(日)午前10:30ごろ〜

 

@     まず八の折の場所をさがし、一番古く大きな家を訪ねた。そこで、田んぼのしこ名を調べているが、詳しい人がいないかたずねると、穴川にいり区長さんがよく知っているのでそこをたずねるようにその家のおばさんに言われた。区長さんの家を地図で確認して、そこへ向かった。

A     区長 牟田口 美好さん 大正13年生まれ

B     区長さんに田ん中のしこ名を調べているというと、5年くらい前からの圃場整備によって失われてしまったという。そこで、何とか思い出してもらって記録したのが、地図の姉川付近のものだ。

C     しこ名はどうやって決まったのか

昔、姉川城のあった場所にある田ん中を『舘』と呼んだり、今は寺はなくても、昔寺があった場所の前は『寺の前』、天神様の前は『天神様』、小さな道の多かった場所は(城の前だったから)、『小路』とよんでいたという。城の前で馬を下りる場所だった所は『下馬台』といったように、実際に何かあったりして理由のあるものも多いが、よく理由のわからないものも多いという。また家によって、同じ場所でも呼び名が違うことも多いそうだ。

D 水路の名前は田ん中の名前と一緒に呼んでいたので、特に名前は付いていなかったという。 

E 用水について

圃場整備以前は姉川城のお堀から水をひいていた。そのおかげで、ここ(姉川)は水に困ることがほとんどなかったそうだ。だからまわりの人たちに水をわけてあげたこともあったという。そばの中地江川は雨が少ないと干上がってしまうそうだ。(昨年がそうだった)そんなときでもお堀の水はあるという。また、お堀はくっついている田んぼのものだとされていので、その田んぼの持ち主のものだった。

 しかし圃場整備の後、堀は国のものとなり水は引けなくなってしまった。そして、その代わりに筑後川から水を引いてくるようになった。しかし、それはまだ完成していないので昨年は大変困ったそうだ。

F 圃場整備について

  5年ほどまえから、田んぼをきれいな四角にし、水路をつくっていった。しかし姉川城 

  のあった近くは、文化財としてのこすために、整備あれなかった。そこは、ごちゃごち 

  ゃしていて作業しづらいのでむしろそこをやってほしかったという。かつての水田の面影はまったくなくなってしまったという。

 

G 出荷について

  現在では、収穫したあとすべて組合にあつめて、他のひとの分と一緒にし、組合が価格をつけて売ってしまう。そして全部売れてしまってからお金が通帳に入るという。だからもう忘れた頃に振り込まれているそうだ。

H 減反について

  毎年減反するように言われ、稲作をやめた田んぼには大豆を植えるという。ビニールハウス等での園芸、農業は魅力的だが、もう年を取ったので新しいことはしないという。しかし、減反をすすめる一方で、コスト削減のための大型農業化も同時に行うようにいわれるそうだ。

I 作業はサラリーマンの息子と2人でやっているそうだ。農業だけで生計を立てるのは難しく、定年退職してからで十分間に合うのだそうだ。

J 最後に八の折のしこ名は、やはり実際に耕作している八の折の人に聞いて見るしかないという。しかし、八の折には(目印になるものが)何も無いということで、しこ名はなかなか分かりづらかろうという。どなたか詳しそうな人をご存知ないかたずねると、牟田口義好さんを紹介してくれた。

K 八の折の牟田口義好さん 昭和3年日生まれ

L 4ヶ所のしこ名を教えてもらった。大きな用水の隣の一帯の田ん中は『境ん土』、八の折の前の田ん中は『八の折の前』、五の折の前の田ん中は『五の折』の前と呼んでいたそうだ。また、人の住んでいる集落の名前を○の折と呼び、田ん中の名は、○本松とか○本杉とか呼んでいるそうだ。

M しかし、自分が耕作していた田ん中以外のしこ名は分からないという。また近所には若い人が多く、誰にも分からないだろうということだった。

N この付近は水の便が悪く、昨年の様に雨が少ないと昔はまず一粒の米も取れなかっただろうという。しかし今は圃場整備のおかげで筑後川から水がくるので大丈夫だったということだ。



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