【神埼郡神埼町八子(ヤゴ)】 歴史と異文化理解A 現地調査レポート 944669 梶原大樹 944673 窪田徹也 調査日:11月16日月曜日 話者:中尾覚さま(区長)
11月16日月曜日、私たちは佐賀県神埼町の八子にしこ名の調査に行きました。朝9時に九州大学(六本松地区)を出発しました。交通手段には、レンタカーに軽自動車を使用しました。 30分後に福岡インターに着き43分に基山を通り、10時ごろに東脊振に到着しました。 東脊振から八子(ヤゴ)までの道順は、地図の1枚目にオレンジ色で示したように行くつもりでした。地図を見ると郵便局の次を右折すればよいのですが、その通りに行くと田んぼのあぜ道に入り。そこから抜け出すのに苦労させられました。 何のことはありません、郵便局が移転していたのです。赤で書いてあるところ、飯町を通りどんどん先の方に行くと、知らない間に二子(フタゴ)まで来てしまいました。つまり「八子」に行く途中に二子はあった、非常に狭い道(神社が目印)で左折しなければいけなかったのです。もし行くときは軽自動車で行くことをお勧めします。 八子には多くの家と田畑があったので、一日かかっても調査が終わらないのではと少し心配になりましたが、とりあえず通りかかった男の人に話しかけてみることにしました。 「私たちは大学で(中略)田んぼなどに付いている名前で、村の人、家族でしか通じないものを教えてください。」といって地図を見せました。すると「私は昔からここに住んでいる訳ではないけれど正戸口(ショウトグチ)をいうのがあるよ」(本当は方言)と言われました。他にないかと尋ねると、区長さんを訪ねるとよいと言われたので、家の場所を教えてもらい、訪ねることにしました。道に迷いながらも10時30分、中尾区長さん宅に着きました。 さっきと同じことを言うと、家の中に上がるように言われました。質問すると「一本黒木」などの役所で使っている、今回調べに来た方でない名前を言われました。私称、俗称などということを言うと、そんなものは知らないと言われました。そこで先にきいた正戸口などの類の名前は他にないかと質問しました。すると、そういうのは他には付いていない、と言われました。正戸口の名前の由来は昔と言っても区長さんもよく知らないそうですが、地図二枚目の黄色の部分のあたりに「正戸門」という門があったからだということらしいです。 田んぼの他に橋、堀、クリーク 、井樋 、道、山、家についていないかと尋ねると、「横落水道」というものがあると言われました。それが場所は二枚目の地図のオレンジ色のものがそうです。 次に水利関係の質問に話を変えました。自分たちで作った質問用のマニュアル(レポートの最後の用紙)に従って、まず圃場整備前でどこから用水を取っていたかを質問しました。すると、八子では圃場整備は行われていないとのことでした。しかし、昭和32年に交代分合が行われたそうです。 今年、特別に行った水対策あるかとの質問にはないとの事でした。八子は水の便が良いところなので、八子で水対策をしなければいけないよなことになったのなら、周辺地域一帯は終わりだったとも言われました。 「淡水灌漑地域であるか」との問いには違う、「流水灌漑地域」だとのことでした。つまりは八子の東側を流れる川を少し堰き止めて横落水道に取り入れて、ポンプなどは一切使用せず、全て自然任せであるとのことでした。 (入力者注記、以下2葉の写真の説明。写真省略) ○八子東側を流れる娘。川を堰き止めている。(写真左側)と横落水道の水の取り入れ口(写真中央) ○横落水道の石垣は、佐賀では有名な成富兵庫茂安が造った。
そして場所による収穫量の差はあるかということについては、だいたいどこでも同じであるそうです。「戦前、化学肥料が入る前、反あたり何俵だったか」には、「戦前からすでに化学肥料あり、農業を始めた昭和15年には既に化学肥料は使用されていた」、「化学肥料が入る前は、反当たり7俵(420kg)ぐらいで、現在は9俵(540kg)、去年(94年度)は10俵(600 kg)ぐらいだったそうです。 「いかなる肥料を使ったか」には「ニシンカス」「大豆カス」とのことです。
(入力者注記、以下1葉の写真の説明。写真省略、原本は佐賀県立図書館所蔵) ○分かりにくいですけれど八子全体の地図。本当は分割して大きく撮ったものがありましたが、接写しすぎてぼけてしまい全部ダメでした。昭和53年国土調査の時の地図。
以上の事をまとめてみますと、 ○調査日 1月16日月曜日 ○協力者、中尾覚さま(八子区長) 生年大正14年(69歳) ○しこ名、正戸口(しょうとぐち)、八子南部 ○水源、城原川→横落水道 ○収穫量 現在1俵/反(去年1994年)。10俵/反。 化学肥料なし。7俵/反、使用肥料、ニシンカス、大豆カス。
ひと通り質問が終わると区長さんは私たちにお茶とお菓子とみかんを出してくれました。そして色々と雑談をしました。お話によると区長さんは2年前に奥さんが亡くなられたので、その時から農業を止めているそうです。そして11時45分に中尾区長さん宅を出ました。帰りに吉野ヶ里に少し寄ってそのまま六本松まで帰りました。 レポートには書かれていませんでしたが、本当はもっと多くの人に話を聞いたのですが、進展がなかったので省かせてもらいました。どの人区長さんに聞けばわかるとの答えでした。 この講義「歴史と異文化理解A」を取っていなければ、私たちは一生、佐賀の神埼町、まして八子に行き、その土地の人と話すことなどなかったでしょう。行く前は相手にしてもらえないのではと心配でしたが、そこの人は親切だったので助かりました。この調査は自分たちにはとても良い経験になったと思いました。 費用はレンタカー代8,000円、高速料金1往復で1,900円円、写真代3,000円ほどかかりました。バスにすればよかったような気もしました。
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