【神埼郡神埼町横武鶴田、山田】

歴史と異文化理解

1TE96651  松島 敏則

1TE96663  森部 真也

 

僕たちは、神埼町の鶴田と山田と横武に行ってきました。

 

(鶴田) 10人ほどいろんな人にあたってみましたが、誰も知っているものはいませんでした。今の鶴田は、分譲住宅やアパートが移ってきており、多くの田が寄付されていた。

 しかし、そのかわりといってはなんですが、昔のこの村の話をしてくださった方は、そこの区長さんで田崎さんとおっしゃる方でした。鶴田の東側には昔から城原川という川が流れており、昔はよく洪水をしていたらしいです。そこで、その洪水を防ぐために城原川は広げることになっていたそうです。

 それによって川を広げた部分の田が土手になり、さらに田はせまくなったということです。また、その付近に2つのお宮があったらしく、そのお宮が合併したそうです。そのお宮をまつった公民館があったので、そのことについていろいろ調べようと思ったのですが、誰も知っている人はいなかったので調べることはできなかった。

あと、その田崎孝平さんが唯一知っていたしこ名がありました。でも正確な場所はわからないそうで、「まがりさん」というしこ名の所があったらしいです。

(山田) 山田は、池辺田と用水路で区切られていたらしいです。山田は、実にせまい村で2つのしこ名「八本松」「九本松」でしめられていました。そのしこ名についての由来を聞いてみましたが、わかりませんでした。

(横武) 山田から西のほうに歩いていたら、クリーク公園があったのでそこに行ってみました。そこの公園の管理人さんに話を聞きました。(68才女性)

 クリークは現地では「堀」と呼ばれていました。中国から伝わってきたものらしく、今までも全く手をくわえられておらず、そのままの状態で残されており、「水の郷」として国土庁の認定を受けているそうです。

 今では減田政策でかなり田が少なくなってきているが、戦時中は食糧が不足していて、ちょっとしたすき間にも稲を植えていたそうです。堀の中には小さな島があり、たらいや小舟でそこまで渡り田植えをしていたらしく、五月ごろには稲を植えていたので雨期(梅雨)時には島と水面が同じ高さまでなり稲はよく育っていたということです。

 横武の西のほうの姉川城のこともいろいろ教えていただきました。姉川城の前には川が流れており、その川には中橋と往生寺橋がかかっています。

 姉川城の門が中橋の前にあり、昔はよくそこから人々が出入りしていたので、そのあたりを「下馬口」と呼ぶようになったそうです。

 その他、横武のしこ名で教えていただいたのは、「(かん)(のう)()」「実元裏(さねもとのうら)」「薬師寺」「門前中古賀」「大字(わくわ)」などがありました・



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