歩き、み、ふれる歴史学

レポート/行動記録

経済学部経済工学科 3年

1ec94207 安東 裕之

1ec94230 川口 宏

 

 

調査地:神埼町 塚原・野々内

まず、地図上の記号の箇所の名前について書きます。

A:白石山「シレイシヤマ」

B:コエンドウ(←谷の名前です)

C:ノンコシ

D:四の角「ヨンノカク」

E:三の角「サンノカク」

F:ホトケツカ

G:一の角「イチノカク」

H:サカイダニ

1:二の角「ニノカク」

J:タヌキダニ

K:ヨコマクラ

L:スギンナカ

M:テラヤシキ

N:カンノクマ

1:後述

2:万染溜池「バンダイイケ」

 

話を聞いた方

・執行 静夫さん (区長)  70

・平方 寛九郎さん      70

・寺崎 国太郎さん      85

 

1について

ここは、上流から流れてきた川が2手に分かれる場所です。普通は三本松川と言われていますが、昔は大川(ウーカワ)・西川(ニシンカワ)などと呼ばれていたそうです。ここで分かれた川は、それぞれ志波屋方面と小渕(オブチ)・竹原(夕力ワラ)方面に流れていきます。どちらに多く水を流すかは、話し合いで決められていたそうです。

昔の干ばつの時は、下流の村の人が水を盗みに来ることもあり、見張りなどもいたそうです。1994年の干ばつの時も、昔ほどではないにしても、やはり水門を開けに来る人が居たそうです。

この場所自体に特別な呼び名はないそうです。

 

2の万染溜池は、終戦直後にできたものです。園田一男さんという方が飛行機事故で亡くなり、その飛行機の名前がつけられたということでした。

 

 

一日の行動記録

961223()

安東と川口、2人で佐賀に向かいました。

途中、ちょっと道に迷って目的地に着いたのが12時。今日中に目的を果たせるのか不安になります。先生にもらった封筒には“野々谷”と書いてありましたが、地図を見てみると“野々内”となっていました。“ノロウチ”と読むそうです。

はじめは今まで通り、村の人の家に行って話を聞いていたのですが、なかなか知っている人はいません。すると川口君が、「実は神崎町の町長さんの息子と友達だ」などと(いまごろ)言い出しました。これ幸いとすぐに連絡をとってもらい、町長さんの家におじゃまさせてもらうことができました。

残念ながら町長さんは多忙のため留守で、連絡もつきませんでした。それでも家へあげていただき、町長さんの奥さんに話を聞きました。しかし、奥さんもやはりしこ名については詳しくは知らないそうで、知っていそうな人に連絡をとってもらうことになりました。

それにしても、部屋に飾ってある写真がすごかったです。町長さんが天皇陛下や首相と一緒に写っている写真がありました。2人で驚いていると、いつのまにか目の前にはラーメンといなり寿司が・・。お昼をごちそうになってしまいました。奥さんはすごく親切でした。

まずは、昔教師をされていたという平方 寛九郎さんを紹介してもらいました。地図上の※1の水門の近くに住んでいらっしゃる方です。この方からは、水門の昔の様子や※2の溜め池の話を聞かせてもらいました。しこ名については、本当に家の中だけでしか使わないような呼び名しかないとおっしゃっていました。例えば、家の前にあるから「イエンマエ」とか、お墓の北側にあるから「ハカンキタ」といった具合です。同じ田んぼでも、片方に住んでる家族は「ヒガシンタ」と呼び、その反対に住んいでる家族は「ニシンタ」などと呼んでいたそうです。※1で三本松川は、上流から見て左(志波屋方面)と右(小渕方面)に分かれるのですが、志波屋方面の方にたくさん流れていました。昔も、志波屋:小渕=64、ということで話し合っていたそうです。溜め池の方も案内してもらいました。この辺では焼き畑は行われていなかったそうです。戦時中は防空壕作りによって出てきた砂が、田んぼに捨てられたそうで、それにより多くの田んぼがだめになったということでした。

次に三本松川の上流に案内してもらいました。そこに、この辺で一番年輩の方がいらっしゃるということでした。確かにいらっしゃったのですが、さすが日曜日、先生のプリントに書いてある通り、みなさんゲートボールをしておりました。町長さんの奥さんがいてくれたので、なんとか取りなしてもらって、話を聞くことができました。寺崎 国太郎さんという方です。この方には、地図上のAからGくらいまでのしこ名や、山、谷の名前を教えてもらいました。

他の方たちにも聞きましたが、やはり「ニシンタ」とか「ヒガシンタ」などという呼び方をすることが多かったそうで、しこ名というと「??」という感じでした。

また平方さんの家に戻ると、平方さんが「この人なら知っているだろう」という人に電話連絡してくれていました。その方(すみません、お名前を忘れました)と電話で話しましたが、「詳しいのは志波屋の方で、塚原、野々内についてはあまりわからない」とのことでした。その方が、「服部先生にはいつもお世話になっています」とおっしゃられたので、びっくりしました。

次に町長さんの奥さんは、区長さんのところに案内してくれました。やはり区長さんもゲートボールをしていました。執行 静夫さんという方です。区長さんは、僕らの話を聞くとすぐにゲートボールをやめて、家に戻ってくれました。そして自宅で話を聞くことができました。この時点で午後4時過ぎ、町長さんの奥さんは今まで付き添ってくれていましたが、ここで帰りました。これまで感謝、感謝、です。

まずしこ名のことを聞いてみましたが、区長さんもほとんど知らないということでした。そこで、区長さんは昔の書物をたくさん持ってきてくれました。しかしどれを見ても小字の名前ばかりで、先生が望んでおられるようなしこ名っていうのは、ほとんど(というか全く)無かったです。ずいぶん長い間調べたのですが、やはり見つかりません。せっかく区長さんが無理して持ってきてくれたのに、何か僕らが申し訳ないような気持ちになりました。

いい加減、区長さんの迷惑になりそうなので、調べるのをあきらめたのが午後7時半。それからまた迷いながら帰宅の途についたのでした。

とにかく今日は町長さんの奥さんのお世話になりっぱなしでした。

それと、場所のせいもあるかもしれませんが、僕らが1年の時「歴史と異文化理解」の授業で、しこ名を調べに行ったときより、さらにしこ名のことを知っている人たちが少なくなったと思います。もう少し年月がたっと、本当に知っている人がゼロになってもおかしくありません。こういうことを調べるのは、まさに今が最後の機会なのでは、などと思ってしまいました。



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