【神埼郡神埼町菅生】

歴史と異文化理解Aレポート

 

S1-14 944670 金丸 崇

944671 萱嶋建吾

話者:手束さん(生産組合長)

 

菅生は日の隈山と城原川に挟まれた地域で、小字名では市場・四本谷に当たる。東側に城原川が接しており、県道31号線をまたいでいる。県道の北側に集落があり、住民の多くは老人であると思われる。

初め真正寺という寺を訪ねると、老人がいたが他用があるらしくて話が聞けず、その近くで別の老人に尋ねてみた。ところが、しこ名については何も知らなかったが、区長と長老を紹介してもらった。

長老は田中酒店という店の人で、村一番の長老らしく、後にも別の人に紹介を受けるが、休養中ということで店の人に断られた。また、区長も留守だった。実際80歳以上程の老人でないと、しこ名についてはよく知らないようなので、田中酒店の長老に話を聞けなかったのは残念だった。

集落に入り、ある民家を訪ねると、生産組合長の手束さんを紹介されたので行ってみた。すると、手束さん宅付近のみ「いしぎどん」というしこ名を知っていて、調査が一歩前進した。また、別の民家ではそれほど老いていない人が、「内田」「しもごうら」「かわむかえ」「あかね」といった、小字名でいう四本谷・二本杉・三本杉の地区のしこ名を知っていた。

市場については、地租改正時に機械的につけられた小字名ではなく、それ以前からも市場と呼ばれていたようだ。というのは城原公民館付近で尋ねた老人から聞いた市場という地名の由来から考えられる。1336年、後醍醐天皇に反旗をひるがえした足利尊氏が入洛を果たしたものの、北畠顕家に敗れ、西走し、九州へ落ちのびた。そこで、尊氏が再び都を目指すための本拠地としたのが、菅生から北に見える城山である。それで城下町として商人が集まり、市場という地名がついたということだ。室町時代も城山の山城は竜造寺氏の時代まで存在したらしい。おそらく、江戸時代鍋島藩領になったとき、一国一城令により廃城になったと思われる。それから商人町としての姿を失ったが、市場という地名だけが残ったのだろう。現在、市場は竹やぶと民家と畑しかなく、過去の商人町は想像しがたい。

菅生地区は今も昔も城原川より水を引いており、用水路が見られる。また、ほとんど水田は見られず、多くは畑であり、水不足に悩むこともあまりなかったようだ。

以上、この調査の経過・内容を述べてきたが、この村もやはり後継者不足という問題を抱えている。

 

いしぎどん〔写真1略:原本は佐賀県立図書館所蔵〕

 

市場〔写真2略〕

 

しもごうら、かわむかえ〔写真3略〕

 

あかね〔写真4略〕

 

城山〔写真5略〕

 

〔添付地図書き込み地名〕

・あかね

・かわむかえ

・しもごうら

・ざのまえ

・いしぎどん

・てんじんめい

・うちだ

・じゅうじえん

・市場:以前は商人の町と知られており、水田はあまりなかったらしい(市場と呼ばれていた)。



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