「歴史と異文化交流A」レポート 「野田」

S1-14 944683西村信之  S1-14 944684濱ア武徳

 

今回のレポートで自分と濱ア君が調査した場所は、佐賀県神埼郡野田という所でとても小さく静かなところだった。僕達が調査した日は朝から雨が降っていて、人出がほとんどなく、野田に着くまでにずいぶん苦労した。それでも何とか地図を頼りにたどり着いて、まず区長さんの家を訪れようということになった。区長さんの家を尋ねようと手当たり次第にその辺の家に聞いてまわったが、数軒目にしてやっとその名前と家の位置を知ることができた。現在、野田地区(正しくは竹第一、二工区区長)区長さんは牟田忠彦さんというかたで、大正9年生まれの74歳、一見すると怖そうな頑固親父(協力してもらいながら失礼だが)そうな人だった。僕たち2人は学校で歴史を勉強していて、この辺りの田ん中の事を教えてもらいたいんですが・・・と言うと心良く協力してくれた。その上、風邪をひいていながら臨時会を家に隣接している公民館で開いてくれた。そこでいろいろ話をうかがうことになったわけだが以下にその内容を示す。

 

 

Q:昔この村にしこ名はありましたか?

A:まず家の前の田ん中はまえんだ、裏はうらんだ。他には・・・よこぜき、くつわだ、げんじゅうた、なえしろた、ろくせた、やまかった、のうしろた、よこた、ぐらいかな。場所はまえんだとうらんだ、よこたぐらいしかわからない。

 

Q:この村では圃場整備以前にはどこから用水をとっていましたか。また、水を取り入れる井樋の名前や水争いの有無などを教えて下さい。

A:この辺りは昔から日の隈山にあるため池から水をひいていて、そのため池から流れる川を横内川という。いかりは野田の堤、坂樋(さかゆび)があった。今は自動関が5箇所で作動している。水争いは5月の関止め、10月の関落しの際に各部落の長が立会してきちんと話合いでとり決めをしていたので目立った水争いはなかったと思う。個人間ではあったようだが・・・

 

Q:去年は大変な水不足の年でしたが、特別な水対策はしましたか?

A:うちの地区は水源が近いため、水不足の心配は全くなかった。ただ下流のほう(佐賀市から有明海にかけて)は水不足が深刻だったようで、たまり水をポンプでくみ上げて配水していた。横内川関係部落には水利理事、幹事がいて、総元締めは佐賀市泉にいる。今年はその辺が集まっていろいろ苦労してやっていた。

 

 

しこ名を書く地図が、もらった地図だと適当な大きさのものがなかったので手書きにします。

 

 

御協力してくださった人の名前

区長  牟田 忠彦さん (大正9年生)

    牟田婦人 (?)

    堺さん (大正12年生)

    堺婦人 (昭和3年生)

    古賀さん (大正12年生)

    古賀婦人 (?)

    村田さん (大正10年生)



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