歴史異文化理解A 現地調査レポート 山野 哲司[1] 地区:佐賀県神埼郡姉川二の折 調査日1月21日(土) 聞き取りの方法:まず二の折に行ったが、二の折には区長さんはおらず、五の折にいらっしゃる区長さんが二の折なども管理していると聞いたので五の折にいらっしゃる区長さんを訪ねた。1時間程話を聞いて、もっと詳しく知っているという老人を紹介してもらったので、その方を訪ねた。その方は地区の遺跡などを調査していらっしゃるそうで、実際に二の折まで行ってくださり、二の折に住まれている老人といろいろ話し合われた。その話を聞かせてもらった。 内容:しこ名について もとからこの地区は一の折、二の折というふうに呼ばれていた。現地のひとはいちのい、にのいというふうに発音しているようだった。この地区が〜の折と呼ばれるようになった由来は、戦国時代にまでさかのぼるらしい。当時ここは馬の訓練場だったそうで、一の折から順に馬を走らせ訓練していたという。そのため、単に一〜九といった機械的な呼び方がされていたということである。また戦国時代頃は姉川城の殿様がこの辺り一帯を治めていたが二の折付近はちょうど四か国の国境にあたり、大規模な戦闘が度々起こったそうで、当時の武器や戦死者を埋葬したところなどが、遺跡としていまでも発掘されることもあるということだ。そのしこ名については、二の折以上の細かい呼び名はないということだった。 ふくろそこ・・戦国時代の戦場跡。前に述べた理由によっていろいろな戦争関係のものが発掘されているようだ。姉川では最もへき地にあるためこう呼ばれていたらしい。 水利について・・水については中池江川からひいたクリークによってまかなっていた。一の折、二の折以前にクリークは通じているが、これらの地域でみずに困ったことはほとんどなく、それ程水は豊富だったそうだ。そのため水を守るために見張りをつける必要もなく水がもとで争いがおこることもなかったという。ただ、二の折の西の境のでいを境にその西側二の折の北川には水が少なかったらしい。そのため二の折以西には「にだんいび」や「そうめんいび」などを通じて、旱魃の時にはみずを送っていたりしていたという。ちなみに昭和14年の大干ばつや去年の干ばつの時も水不足の心配はなく、むしろいつもより余計に米がとれたということだった。 「そうめんいび」・・上記のように、二の折以西に水を送った水のお礼としてそうめんをもらっていたことからこのように呼ばれるようになったという。 田んぼについて この地区のたんぼは総じて良田だったらしい。普通は一反あたり8俵くらいとれていたそうだ。また前述の昭和14年の大干ばつの時には10俵くらいとれたこともあったらしい。また裏作をやっていたそうで湿田などはなかったそうだ。 肥料 まめたま・・大豆かす、満州より しめかす・・にしん、いわしを干したもの たいひ ・・馬糞、牛糞、人糞など(馬は戦前はどの農家にも必ず一頭はいたそうだ。牛はいないところも多かったという) (戦前) 硫安、カリン酸石灰 ※ 戦前は化学肥料などなかったので田んぼに油をはって、わらやほうきなどで稲についている虫を払い落とし、油で飛べなくなるようにしたりしていろいろと知恵を働かせていたそうだ。 裏作 麦・・小麦、大麦(自家用、みそ、しょうゆなどにつかっていたらしい)ビール麦、なたね、りょくひ、ふうぞう(蓮華草) 今後の日本の農業の展望 後継者不足を嘆いておられた。専業ではやっていけず、仕事の合間や日曜日などにけっこう年配の方が田んぼにでて農作業をやっている姿が目に付く、それが心配だとおっしゃっていた。 感想 実際にその地を訪ねて、現地の人の話を聞いたり、その地の風土に触れてみることで、自分の住む世界とは違った世界に入り込んだような何か新鮮な気分になった。貴重な体験ができたと思う。 話しをお聞きした人 城島 昇さん (大正15年生まれ) 柳川 敏さん (大正14年生まれ) |