944803  海江田 寛彰

夫婦井樋の昔の水田について

◎情報収集の過程・・・

バスから降ろされたところが、自分の割り合てられた所ではなかったので、三本杉の人から夫婦井樋のおおよその場所をおしえてもらった。次に、夫婦井樋周辺の家の一つ、城島さんの宅を訪ねた。その家の玄関では、この辺りの農業関係の役員の人もいらっしゃったので、その人達に色々と聞いた。ほとんどのしこ名は、この人達から教えてもらった。その人達は、「くしなだ神社に行けば詳しくわかるかもしれない」とおっしゃった。

 そこはこれで家をあとにした。神社は遠いので、三本杉の牟田さんに聞いてみたが、よく御存じないようで、この辺りの区長の江口さんの家を教えてもらった。それで、その家に行ってみたが留守だったので、近くにある馬場さん訪ねてみたが、何かのケイコをやっているようで忙しそうだったので退出した。次に、近くの寺に行ってみたが、何か宴会をやっていたので、訪ねなかった。めぼしい所は行ってみたが、昔のことを御存知の方は留守だった。それで、くしなだ神社(今はくなだ宮)に行ってみたが、空振りに終わった。

再び区長の江口さんを訪問したが、留守であった。しょうがないから、迷惑と思ったが、寺を訪ねたら区長さんがいた。水田について聞いてみたが、あまり御存じなかったので、去年の水不足、昔の水不足、この辺りの行事について教えてもらった。

 

90さいぐらいの老人はいらっしゃらなかったので、しこ名や、そのしこ名がついていた水田の場所がたしかではなかった。

 

 夫婦井樋は、横出という道を挟んでいる2つの井樋である。堀は埋められて、昔本告牟田城を囲んでいた堀の面影はなかった。

 

 

◎水不足の関して・・・

 去年の水不足は、あまり深刻でなかったようだ。なぜなら、水不足のとき城原川のダムは水をとめるが、徳富河(姉川から、最近作られた)から水をひけるから。

ひと昔前では、徳富河からの水路がなかったから、牟田城跡の周りの堀から水をポンプでくんでいた。

昔は水不足のとき、井樋のとり合いで衝突があった。下流の人々は、上流の人々の井樋の監視の網をくぐって、井樋に水を通すのが、そのとき、はち合わせになったら、衝突が起った。(この辺りでは、三千石の戦が知られている。)

普通は、城原川が水を供給する。

 

☆補足

a)城原川

城原川は昔は曲がりくねっていたので、一本松から六本松まで1つの集落としてつながっていた。しかし、なりどりのひょうごが改流して、川を真っ直ぐにした。その後、この川に沿う道、長崎街道は参勤交代の道となった。

城原川の周りの土質は、砂質だがすぐ川から離れたところは、粘土である。だから地震に強いと言っていた。

 

b)長者林戦(水禄元年1558

夫婦井樋辺りで、少武・江上・神代の連合軍が、龍造寺小田・牟田・大塚の連合軍と戦い敗れた。

 毎年8月18日、少武・江上・神代の連合軍の供養の祭りがある。

 毎年8月19日       〃     の馬たちが殺された場所で祭りがある。

 

c)なりどりのひょうご



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