【神埼町尾崎 唐香原・片福】

 

1AG96253  山下正毅(班長)、

1AG96257 吉川圭介(付添人)

 

話者:多伊良ヨシエさん(90)

唐香原(カラコウバラ)

 しこ名  カラコウバラ(唐香原)のみ

 

祇園原(旧名:片福)

 しこ名  ヨコウチ(横内)

      ハブノウチ(ハブノ内)

      フタツノモリ(二つの森)

      ハナデ

      イデ(井手)

      イデノウラ(井手の裏)

      ムカイダノウチセ

      コバヤシ(小林)

 

 水は、日ノ尺池、野田池から六十町も引くことができたため、水争いもなく、うまくいっていたらしい。

 

唐香原

12/23

 唐香原・片福周辺のしこ名を調べるため、唐香原付近で降りた。ここで降りたのは、吉川圭介・村上春樹・森 亜砂美、そして私、山下正毅の計四人である。とりあえず現在地を確認するために、近くにある店(食料品・野菜などを売っている、それほど大きいとはいえない)にいたおじさん、いや、おじいさんと言ったほうが適切であろう。地方特有の方言が入り混じった話し方だったが、とても気さくで親切な人であり、とても丁寧に教えていただいた。少し理解できない所もあったが、現在地も確認できた。そのおじいさんにお礼を言い、唐香原を一通り周ることにし、村上・森と別れ北上した。北の山のふもとには西九州大学があった。地図上では家政大学とあったので、おそらく名前が変わったのであろう。なんとなく親近感のある大学である。おそらく私立大学であろう。見た感じがいかにも私立らしく、センスの感じられる建物だった。金がかかってそうだ。ただ、学生はこの周りでどのように生活しているのかと想像してしまうと、一人妄想の世界に陥ってしまう。ここで私の妄想を書いても仕方がないのでやめておく。北限に行き、西に向きを変え歩いていった。

 しばらく行って、再び近くの人にこの周りのことを聞くことにした。私は幾分人見知りするタイプなので、少しとまどっていたら、私の相方、吉川圭介がてきぱきとしていて様々な話を聞いていた。話をしていただいたおばさんによると、この辺りは唐香原ではなく、唐香原はもっと南、東の方だと言っていた。つまり、私達が来た方角であった。

 ちなみにこのあたりのしこ名(その付近の人達に伝わる田畑の名前・愛称みたいなものかな)を何か知っているかどうかたずねたところ、この辺りではすでに田畑を手放した人が多く、そのようなしこ名は伝わっていないらしい。確かに周りを見回すと荒れ地が多かった。この辺りでも過疎が進み、田畑を受け継ぐ者がいないのだなと実感した。このぐらいの田畑経営ではやっていないのであろう。海外などの大農場とは違うからな、割りが合わないのだろう。

 ひょっとしてこの辺りのしこ名はもう消滅してしまったのか、これでは服部先生からの使命が全うできないのではと不安に思いながら、とりあえず元の場所に戻ることにした。この辺り、人家は少ないわりには交通量が多い。特にダンプカーなどが多く、並んで歩くには危険である。あの車はどこに向かっているのであろうか。

 店の付近にいるおじいさん(前回最初に話をした人)と再び話し、しこ名について聞いてみたら、親切にも「それなら」と区長に会わせてくれた。区長に相談すると、ちょっと待ってくれと言い、家の中からこの辺りの地図を持ってきてくれた。さっそく、しこ名についてたずねたら、それは字唐香原だよと教えてくれた。私が期待していた答えは唐香原の中の田畑についているしこ名だったのだが、そうではなく、ここら辺を昔から唐香原と言っているらしい。だから、この辺りのしこ名は唐香原でいいらしい。この地が再調査なのも、なんだか納得がいく。

区長さんの見せてくれた地図についてもう少し書いておく。彼の地図には地域すべてに番号がついていた。それは「畑」「林」「道」「宅」などがあり、2847−3林などと書かれていた。すべて番号で管理されているのである。もし林から宅地になっても番号は不変だそうだ。もし、2847−3林に手紙を書いたら誰が受け取るのだろう…。バカなことを考えてすみません。ちなみにこの区長さんは徳永さんである。この辺りの水について質問すると、北に日ノ尺池、野田池といった大きな池があり、水の確保には困らなかったらしい。

片福

一通り唐香原のことはわかったので、区長に礼を言い、次の目的地片福に向かって出発することにした。周りの民家や田畑を横切り、しばらく歩いた。今日は比較的天気もよく、冬のわりにはなかなか暖かく、ピクニック気分であった。たまにはこんな所を歩くのもいいもんだ。田は冬のため、土がむき出しになっていた。もし夏ならば、どの田にも稲がしげっていて、一面緑でいっぱいで気持ちいいのだろうなと思うと、夏に来たかったなぁとも思う。ある田にはなぜだか多数のカラスが群れていた。カラスは個人的に一羽でも不気味なのに、その数が数百で群れていると恐ろしいとさえ思う。ヒッチ・コック作の「鳥」を思い出し、思わず身震いをしてしまう。まあ、そんなことはないであろう、たぶん。

再び現在地を確かめようと誰かいないかと探していたら、遠くの方に村上・森の両人が見えた。肉眼で見えるのだが、とても声をかけても気づく距離ではない。仕方なく彼らの方へ向かうことにした。二人は相変わらず仲がよく、それはまるで…とこんな所で形容している場合ではないのでやめておく。彼らは祇園原で、私達は片福である。位置的には同じなのだが、ただ片福のほうが地図に載っている場合とそうでない場合がある。これはどういうことであろう。近くで仕事をしていたおばあさん、多伊良ヨシエさん(90)に話を聞いた。片福については、昔この辺りを片福と言っていたのだが、今ではそう言わず祇園原になったそうだ。ということはもうこれから片福はなくなり、この辺りでも消滅してしまうのだろう。なんとなく悲しいものである。しこ名については幸運なことにこのヨシエさんがやけに覚えていて、すんなりと多くのしこ名を知ることができた。それについては最初に書いてある。

水の事に関しては、唐香原と同様、二つの池から水を引いているそうだ。池から六十町も水が引けるそうで、ここら一帯は水に不自由しないらしい。

私達二人の意見では、ひょっとしたら片福もしこ名なのではと思っている。これらの地名を調べておくことにより、消えゆく歴史的地名を残すことができるのであろう。そんなことを考えると、こうやって人々に聞き回っている私が少し役に立っている気がして、うれしいものである。いろいろ教えていただいた親切な人々に感謝したい。

使命が意外に早く終わったため、我々は村上・森両氏にいとまごいをし、吉野ヶ里遺跡に向かうと師に告げるように頼んだ。我々はひたすら歩いた。途中のFAMILY PLAZAえぞえなどには目もくれず、ソフトクリームを買い、トイレをすまし、歩き続けた。歩き続けるうちに、さっきのえぞえで何か買ってくるべきだったと後悔し始めた。その時、我々の前方に見えたのは木の古臭いやぐらだった。とうとう見えた。我々は前までの疲れをすべてそこに捨て、また歩いた。

着いたのはいいが、入口の所に料金所のようなものが…。帰ろうとした時だった。私の目に「無料」の文字が飛び込んできたのは…。我々はこれも歴史の勉強と言って前進した。

内には、城柵、内濠、竪穴住居、物見やぐら、外濠、高床倉庫などがあり、順に見て周り、最後に資料館へ。人骨やお棺など、様々見た我々の感想は「当時は寒かったんだろうな」だった。

見るものすべて見て、おみやげ屋さんへ直行、私をもっとも強く惹きつけたのは1030円のはにわだ!そして、現在、かわいいはにわをふところに、このレポートを書いている。バスが来た!乗った!



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