【神埼郡神埼町横武下六丁】(1)

S1-15  944770  吉原 洋光

 今回の調査では、まず下六丁に行った。まず、区長の平山九州男さんを訪ね、話をうかがった。区長さんは、のどの調子が悪く、声を出すのが辛そうであったため、あまり深く聞くことができなかったが、いくつかのしこ名を教えていただいた。それぞれの漢字と、話の内容は下記の通りである。

     しまげ…島外、この地図の赤点にかつてお寺があった

     しょういちい…正一位

     やなごう…柳郷、城のあとである

     おおえ…大江

     いぇばた…江端

・若宮神社…3040年前まで地図上の位置にあった。豊臣秀吉の朝鮮出兵のときの慰霊碑があった

 その後下六丁の家を何件か回ったが、情報を集めることはできなかった。下六丁には、若い住人が多く、知らない方がほとんどだった。

 下六丁だけでは、少なかったため、その後上六丁へ行った。

 地図で示された上六丁の地域へ行き、まず小さな店に入り、そこのお婆さんに話を聞いたが、ここは上六丁ではないと言われ、更に、しこ名という意味すら御存知でなかった。下六丁の例もあったため、区長さん宅を探し、区長さんに話を聞いた。それぞれのしこ名の漢字と、内容は下記の通りである。

     ひゃあまき…灰巻、かつて灰巻さんという方がいたらしい

     じゅうさんきんど…十三近所

     きたんうら…北裏

     しんじゃぼい…身代堀、下六丁では同じ場所をしまげと言った

     ゆんやしき…幽霊屋敷、近くに野墓があったらしい

     きたんやしき…北屋敷

     みないやしき…南屋敷、今家はないが、かつて屋敷があった

     なかでえ…中堤、でえは土手がなまったという考え方もある

     でえばたやしき…堤(土手)端屋敷、堤防の近くに屋敷があった

 その後、クリークの利用法や、上六丁の歴史を教えていただいた。

 地図にあるように、かつて、上六丁には、飛地があった。しかし、農地整備や、1反1500円だった税金の問題があり、飛び地は、売をまとめた。また、区画整備の時に、やなごうにあった城の中の碑がじゃまになるため、動かそうかという意見もあったが、たたりやバチを恐れ、そのまま残したらしい。クリークは、農地整備でかなり減少した。区長の貞島庚夫さん宅も、かつては庭の先まで入り江だった。昔はクリークを舟で移動していた。クリークは、1月に水が少なくなるため、ほりを起こして、掃除をする。そして水のいれかえをする。現地調査の時には、掃除の終わった後と思われるクリークがあり、岸に大量の水草があげられていた。今は、クリークの水が多い時は、ポンプで川に吸い出す。

 上六丁でもやはり区長さん以外からは、情報を得ることはできなかった。下六丁でも上六丁でも、共に女性の方は、全く御存知でなかった。「女の人にはそういうものは分からない」という言葉もあった。やはり男性が中心の仕事であったのだろう。ただ区長さんは、しこ名は、子供のころから使っていたということだった。

 今回の調査で自分自身、ここまでクリークが広い面積を占める地域は初めてであり、かなり新鮮だった。こんな内陸部にありながら川や湖でもなく、水と密接に生活していたくらしに、かなり興味を持った。



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