【神埼郡神埼町横武上六丁、下六丁】(3)

歴史と異文化理解A(火曜2限)

   レポート

 

しこ名調査(上六丁担当)

S1-15  944741  城井 洋生

     調査ルート

下六丁担当と合同調査。下六丁区長の平山九州男氏宅を訪問、話を聞く。その後近辺の家を数件当たるも収穫なし。上六丁に移動、最初に目についた店の人に話を聞くが、「ここは上六丁ではない。」上六丁区長貞島庚夫氏宅を訪問、話を聞く。 その他の数件の家を訪ねるが、下六丁と同様、情報は得られず。

 

     成果

(上六丁)

明らかにあったしこ名は次の11個である。

  〔たんなか〕 ・でいうえ(堤上、土手上)…惣原、馬場下のほとんどの地域を占めている

なかんでぇ(中堤、中土手)…惣春、北古賀、中牟田という3つの小字にまたがっている。

         ・きたんうら(北裏)…北古賀のある一部

         ・ひゃあまき(灰巻)…小字としこ名が一致している、佐賀県では珍しい地域である。昔、灰巻という名の人がいたらしい。

         ・しんじゃぼい(身代堀)…四本黒木の一部で、堀に囲まれている。お寺の跡がある。下六丁とはしこ名が異なる。

  〔家〕 ・でいばたやしき(堤端屋敷、土手端屋敷)

…二本松の堤防の近くの家で、今はもうない。

      ・きたんやしき(北屋敷)…みないやしきと対をなす。

      ・じゅうさんきんど(十三近所)…北古賀にある。

      ・ゆんやしき(幽霊屋敷)…近くに野墓があったらしい。

      ・みないやしき(南屋敷)…灰巻に位置するが、今はもう家はない。

  〔その他〕・じぞうさんのまえ(地蔵さんの前)…そのままの意味であろう。灰巻にある。

 すべて地図2に書き入れてある。

 しこ名の他、地図1、2には「飛び地」が2ヶ所書いてある。これは昔上六丁の飛び地であったことを示している。農地整備や税金の問題から飛び地は売られ、減少した飛び地の面積分だけ新たに土地を買い、区画をまとめ、現在に至る。区画整備の際、やなごう(後述)の域の中の碑を動かそうという話も出たが、たたりを恐れそのままにしてあるらしい。

 クリークは農地整備でかなり減少していた。貞島氏宅もかつては庭の先まで入り江であり、舟で移動していたらしい。クリークの水が少なくなる1月、堀を起こして掃除をし、水を入れ換える。現在はクリークの水が多いときはポンプで川に吸い出す。

 

(下六丁)

 明らかになったしこ名は次の5個である。

  〔たんなか〕 ・しまげ(島外)…上六丁のしんじゃぼいと同じたんあかのしこ名である。

小字不明

 
         ・いえばた(江端)

         ・おおえ(大江)

  〔その他〕 ・やなごう(柳郷)…千足にあり堀に囲まれている。城跡である。

        ・しょういちい(正一位)…クリークの一部分のしこ名であろう。

 下六丁の小字の書いた地籍図を用意できなかったため、“しまげ”と“やなごう”は地図2に書き込めたが後の3つか地図1に書き込んだ。

地図1にはしこ名の他、若宮神社と書いてある。この神社は今はないが、3040年前までは地図上の位置に実在した。豊臣秀吉の朝鮮出兵のときの慰霊碑があったらしい。

平山氏はのどの調子が悪いとのことだったので、質問は適度に控えた。

 

・意見・感想

 女性はしこ名について全く分からないらしい。男中心の世界であったことがうかがえる。

 地図で見ても、クリークが異常に多い。クリークを交通手段にしていたことは今まで知らなかった。昔行った柳川を思い出した。

 上六丁の正式な地名は「佐賀県神埼郡神埼町大字横武小字上六丁」となるのだろうが、この場合の小字と「一本松」、「二本柳」などの小字との違いがよくわからず混乱した。前者が地名を表し、後者が田ん中の名前を示すという解釈でいいのだろうか。

 条里制ならば、上六丁はどこに位置するかを考えてみた。西に「東乞井戸里」、北に「箕目里」、東に「正鶴里が」位置する10条にあたると思う。



戻る