歩き、み、ふれる歴史学レポート 〜班員紹介 (クルマ組)〜 班長 内田 良 1LA99036■ 副班長 内田 雅之 1LA99034■ 班員 青山 顕志 1LA99016■ 生山 啓介 1LA99002■ 〜調査目的〜 神埼町岩田を中心に「郡村誌」尾崎村の範囲を確認し調査する。 〜今回の調査によって判明したしこ名一覧〜 尾崎村についてのしこ名 <田畑のしこ名について> (岩田) 小字 岩田のうちに テンドウ<天堂>、カミ<神>、ワサグマ<早稲隈>、 ナカガミ(ナッカン)<中神>、テンジンオ<天神尾> ハッタダ、テラヤマ<寺山> 小字 大薮のうちに ノバタ、西ダルキ 小字 塚原のうちに マエダ 小字 森ノ木のうちに マルヤマ (尾崎東分) 小字 祗園原のうちに ギオンバタ、キタアゲ、ミナミアゲ (尾崎西分) 小字 須原のうちに キョウツカ<京塚>、ニジュウゴコク<二十五石>、 ナカウラ<中浦> 小字 利田のうちに ゲンズウ<原数>またはナカミヤサン 小字 金屋のうちに スウノテンジンサン<数天神>、ソウハル<草原> カネツクボイ
<田畑以外のしこ名について> (岩田) 小字 岩田のうちに サクベバシ、テンジンサン、オチャイデ 小字 塚原のうちに ミツゾエ (尾崎西分) 小字 須原のうちに テンジクコウ<天竺川>、チャーキ、タテミチ、 ヒャーマツガワまたはハイマツガワ<這松川>
キョウモイデ 小字 利田のうちに モウコヤシキまたはウークスまたはウーマッタン 但し、唐香原、轡田、土生、野畑については昔は集落があり、田畑のしこ名を 知っている人がかなりいたということだったが、現在では、すでにその集落も なくなっているため、調査できず。また周りの地域住民から話を聞こうとした が今回の調査においては、話をうかがうことができなかった。
〜調査内容および調査日の行動について〜 ・調査日 2000年 1月 10日(月) ・移動手段 クルマ ・調査範囲 佐賀県神埼郡神崎町尾崎(旧尾崎村)の範囲 ・調査に費やした時間 8時間(移動時間も含む) ・訪ねた民家の件数 10件(うち話を聞く事ができたのは4件) ・総移動距離 187km
<一日のスケジュール> 8:12am 福岡を出発(田島寮に集合) 準備は前日までに全てそろえる事ができた。しかし、過去に調査に 行った場所にもかかわらず、あまりうまくいかなかった地域の調査 ということで、やりにくそうだと不安になった。
8:56am 鳥栖筑紫野有料道路を通って佐賀県鳥栖市に到着!!道路標識を頼りに、 神埼町にむかう、全国地図も使って神埼町方面にむかうも、道に迷う!! 途中、南背振村や中原町や上峰町を経由して行く。どんどん山深く なってきた…。不安がつのる…。
9:31am 佐賀県神埼郡神埼町に到着。しかし、調査範囲がどこなのか特定できず。 まずは、割り当てられた地図の範囲を捜索開始。その前に、腹が減って は戦はできない!!とりあえず、コンビニで食事をとる。
10:03am 地図にある旧神埼郡尾崎村に到着。いよいよ調査開始。地図から考えて、 効率よく調査をすすめるため、「岩田」より調査を開始。さっそく話を伺 うかがうべく、岩田地区の民家を訪問。その後、区長さんの家を教えて
もらい、区長さんから話を聞く事に。
10:39am 岩田地区の区長 野田貞行 氏(昭和9年生まれ)から話を伺う。 かなり詳しく昔の習慣etc…を聞く事ができた。しかし、しこ名につい ては現在ではあまり使わないので、ほとんど覚えていないとのこと。 11:48am 岩田地区および尾崎東分北部についての調査はほぼ完了したので、尾崎 東分の中央地区についての調査に出発!!しかし、またなかなか話を きけそうな人に会う事ができず。何件かの民家を訪ねるものの、失敗。 そうこうしているうちに、尾崎西分に到着。尾崎西分についての調査を 開始することに。区長さんの家を教えてもらい、区長さんから話を聞く 事に。 12:31pm 尾崎西分の区長 深川義美 氏(昭和3年生まれ)から話を伺う。 尾崎西分と花手のしこ名について教えていただくことができた。 しかし、先程と同じく、あまり詳しくは聞けず。旧尾崎村について 詳しく知っているという 八谷至大 氏の家を教えてもらい、その方 から話を伺うことにする。しかし、八谷 氏はあいにく留守のようで 話を聞く事ができず。次回調査の際にはこの方を訪ねてみてください。 13:27pm 旧尾崎村の西部についての調査はほぼ完了。東部および北部の調査を すべく、尾崎東分に向けて、出発!! 14:01pm 尾崎東分に到着。さっそく調査を開始。しかし、またもなかなか、話 を伺うことができず。区長さんの家を伺うも、区長さんは不在。そこで 区長さんの夫人 姉川クリ子(昭和9年生まれ)から、話を伺う事に。 しかし、あまりしこ名は知らないとのこと。かわりに、祗園原地区の昔 からの習慣etc…の話を聞くことができた。
15:00pm 一通りの調査は終了(?)。そこで、いままで話を聞いてきたところで 面白そう(?)と思ったところを実際に訪れて見ることに。 15:06pm 岩田地区の天満宮を訪問。写真をとる。 15:16pm 尾崎西分の天満宮を訪問。写真をとる。
15:22pm さあ、いよいよ調査も終了!!! 福岡に帰る事に。来た道を逆にかえることにする。 ちょうど、成人式とかさなったため、帰りは渋滞にまきこまれるはめに。 はぁ…。クルマでの調査はバス班と違って範囲がひろいので大変だった。
17:12pm やっと福岡(田島寮)に到着。やはりアポなしの調査は大変だった。 でも、いろんな人に話を聞く事もできたし、貴重な体験ができたと思う。 解散!!もう次の用事がつまっているのだ!! 〜調査において話していただいたことの要点〜 <岩田地区区長 野田貞行 氏(昭和9年生まれ)の話> @しこ名について、その名前の由来まで教えていただくことができた。 ・オチャイデ→昔、そこに井戸があったことから、水がわき出る場所=オチャイデ と呼ばれるようになった。 ・ミツゾエ→その場所が三叉路になっているため、三つの道の集まる場所=ミツゾエ と呼ばれるようになった。 ・サクベバシ→昔、その場所に「サクベバシ」と呼ばれる橋があったから。 Aマルヤマと呼ばれるところには、古墳がある。 B昔とはかなりこの辺(岩田地区)も変わってきた。今みたいに住宅が建ち始めたのは 20年程まえのことで、今では、昔の影も形もない。でも、百姓していくには昔のま までは、はっきりいってやっていけない。 C田ん中も今ではすっかり荒れてしまっている。 D町の若者について、今では農業を継ぐ人はまずいない。町の農業の実態としては、親 が農業に従事していて、その息子は農業をするのではなく、普通にサラリーマンとし て、会社勤めをしていて、農業は休日に手伝い程度にしかやらない。 E昔から、大切に守ってきた田ん中だから、やはり守っていきたいと誰しもが思ってい るが、現実として、農業から得られる収入はたかがしれたものであって、それだけで 食べていくことは不可能だし、へたすれば、赤字もでかねない。出稼ぎしないとやっ ていけない。 F電気がきたのは80年ほど前の事で、いっせいに電球に取り替えたということだった。 G今から20〜30年前までは部落内(岩田地区内)の人の交流はとても密だった。何か 困った事があったら、お互いに助け合っていこうという気持ちが薄れ、頼まないと助 けてやらないような感じになっている。今では、すっかり近所付き合いもなくなりそ のまとまりはだんだんとうすれている。そのことは、とても悲しいことだなぁ…。 H昔の若者(野田 氏が若者だったころ)は青年クラブと言うクラブにみんな所属し色々
な悪さ(わーさ)<すいかやかきをちぎったり>をしてきたという。 でも、そのクラブに若者が所属していることで、部落内の団結はさらにふかまった。 I今は区長という役職をしているが、部落の世話はずっとしてきた。区長になるまでに は、様々な役職を経験してきた。やはり、農業をする上では、および、部落が団結し ていくにはリーダーが必要である。リーダーになる人は、昔はやはり金持ち(地主) だったが、私(野田 氏)のようにケンカの強いものもリーダーとして活躍できるの だ。やはり学力よりは権力(腕力)が重視されている。リーダーになる人はそれなり の説得力を持っている人でなければならない!!口ばかりでは×!!実際に行動力の ある人でないと…。 Jやはり、田ん中に大切な水のことでは色々なもめごとがあった。隣町では殺人をして まで水をひこうとする者もいたということだ。でも、最終的には、部落全体が団結し て苦しいときはみんなで苦しもうと決めて、誰もルール違反することなく水をうまく、 平等に分配していた。いまでも、その均衡がやぶられないように区長である私がしき って、その習慣を残すようにしている。これが破られてしまったら、部落そのものの 存在意義がなくなってしまう。 K10〜15年前に行われた区画整理は、農家が生き残っていくには必要な事だと思う。 だが、そのために失われたものもたくさんある。昔は色々な場所に点在していた地蔵 なんかも、そのおかげでいまでは、1つの天満宮にまとめてしまった。 L村の将来についてだが、もう住宅はふえないだろう。理由は病院、学校、役場、郵便 銀行などが遠いことがあげられる。でも建設会社はよく土地をさがしにくる。 <尾崎西分区長 深川義美 氏(昭和3年生まれ)の話> @しこ名について、その由来まで教えていただくことができた。 ・キョウツカ→京塚水門があるから。 ・ウーマッタン→蒙古族の捕虜を収容した屋敷だから。 ・ヒャーマツ→這松川という川の名前から。 Aこのあたりでは農業に欠かせない横落水路について色々と教えていただいた。 ・年4回清掃をしている。この清掃は大規模なものであり、水源の城原川をせききって行うそうだ。しかし、城原川は下流地域にとっても大切な水源であるため、完全 に流れを止めてしまうことはできない。そこで、石をつんで流れを止め、ある程度その隙間から水が下流に流れ出るようにしている。このとき上流から流れてくる土砂がたまらないようにするのが難しいということだった。 B30年ほどで、町の様子はかなり変わったということだった。そのため、昔使ってい たしこ名は今ではほとんど使われないので、忘れてしまった。 C昔から、村の境界や小字の境界は水路や道路であった。 D区画整理の際に、地蔵や寺をひとつの天満宮にあつめた。 E方言についてもいくつか教えてもらった。 ・ノンボイ→上の部落のこと。 ・チャーキ→水門のこと。 ・ミチラク→田の排水溝のこと。 <尾崎東分区長夫人 姉川 クリ子 さん(昭和9年生まれ)の話> @しこ名についてはあまりよくわからないということだった。 A尾崎東分の伝統行事及び言い伝えについて教えていただいた。 ・いぼ地蔵の話→いぼが治るらしい…。 ・祭りについて→尾崎西分と尾崎東分が交代で当番をして開催。去年までは毎年 行われていたが、この地域でも若者がふえ、そのような伝統行事 をめんどくさがるようで、隔年開催となった。この祭りの当番の ことをテースと呼ぶ。祭りでは、朝と夜に食事がふるまわれる。 夜は、サバを使った料理(サバ大根etc…。)、朝はイワシと赤飯を 食べるということだった。すごくおいしいらしい…。 ・お寺の移動について→区画整理でお寺を移動することになったが、最終的にお寺の 因縁とかなんとかで移動できなかったそうです。それ以来、 毎月1日と15日にはきちんと清掃に出かけ、仏様の怒りを 鎮めようとしているそうです。これも、最近の若者はあまり 参加したがらないそうです。 Bやはり部落内における団結力はすごい!!ということだった。「あんたたちも年寄は 大切にせんといかんよ!!」と言われました。病人などがでた場合は村見舞として300 円ずつ徴収してわたすそうです。(かなり強調されました…。) C尾崎村には重要無形文化財となっている「みゆき」とよばれる獅子舞があるそうです (尾崎櫛田神社)
〜調査を終えての感想〜 今回の調査では残念ながらあまり多くの人に話を伺う事ができなかった。それでも、 なんとか二人の区長さんと区長さんの奥さんに話を伺うことができた。私達が訪れた 佐賀県神埼郡神埼町は住宅もまばらで、田んぼが多い。 話を聞くと、やはり病院、役場、郵便局、学校etc…といった生活に欠かせない機関が 遠いから不便だ、というふうにおっしゃっていた。このことは実際にこの町を訪れ、 クルマで移動することを経験した私達も、ひしひしと感じることがあった。 今回は10〜12年前に行われた区画整理によって失われた過去の地形に基づく調査と いうことで、その事について色々と伺った。どの人も区画整理は農業をして食べてい くためにはとても大切な事だという点では一致していた。だが、やはりみんな、心の 中では快く思っていないようだった。確かに、昔の村の姿が変わってしまう事は、悲 しい事であろう。また、区画整理後に町に来た人は、いわゆる昔ながらの近所付き 合いをしたがらないということで、昔からつづいてきた部落の体制もかなりかわって しまったということだった。確かに、私達の私生活を振り返ってみても、あまり近所 付き合いをすることはないように思われる。このことについて、私達は、悪い事だと いう意識はないものの、寂しいことなのかもしれないなぁ…と思った。近所付き合い というものには多少なりとも余計な感情がはいって、損得を考えてしまうように思わ れるが、尾崎の人達はそんなことなどまったく気にもならないということだった。私 達も尾崎の人々と同じように、人と人がお互いに協力して生きていくべきではないだ ろうか…。尾崎の人々の間ではそのように助け合って生きていくことは当たり前の事 であって、義務や責任はそこには感じられなかった…。 私達が現地に行って、道を尋ねた人や、話をして下さった人たちはとても親切な方 ばかりで、あった。区長さんの家の場所を尋ねたときも、わざわざ連れていってくれ たりしてくれた。本当に、尾崎の人達は本当におおらかな感じの人々ばかりだった。 そういった人々に接していると、時間がすぎるのがとても遅く感じられ、こっちのほ うまで和やかな気分になってくる。
話をしてくださった方が皆さん口をそろえておっしゃっていたことが、団結力がと ても強いということであった。水が少なくて、田んぼをつくるのがたいへんな時でも 苦しむ時はみんなで苦しむ、困っている人がいたら、まず相手を助ける。このような 考えを部落の人全員が持っているから、団結は崩れる事はなく、強くなっていくので あろう。
今回、佐賀での現地調査を行って本当に良い話をたくさん聞く事ができた。これは本 当に貴重な体験だと思う。教師は大学の中だけ、教壇の上だけにいるのではない。 この言葉は100%正しいと思った。今回の、このような授業での取りはからいに 感謝いたします。 班員一同
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