歴史と異文化理解 火2限

佐賀県神埼郡神埼町猪ノ面

佐賀県田ん中しこ名レポート  S1-16 944782 池田将 944783 伊藤博志

僕たちは佐賀県神埼町の猪ノ面の田ん中のしこ名調査を行った。初め数軒の民家を訪ねたところ区長や村の役員たちは温泉に役員旅行に行っているということで公民館も休みだったので調査はいきなり暗礁に乗り上げた。しかしあきらめずに調査を続行したところ28年間区長をしていたという92歳の古老に聞けばわかるという答えが多く返ってきた。そこでその古老の家を訪ねたところなかなか出てきてくれなかったが、なんとか会って話をきくことに成功した。その古老の名は定富佐六さんで、明治36年生まれである。佐六さんは92歳にもかかわらず元気なお爺さんで僕たちの質問に喜んで答えてくれた。

子供のころからずっと農業ひとすじで「私はこの部落でたぶん一番のものしりです。」というかなり頼もしい人だった。とても楽しそうに約3時間ほどマシンガンのように話してくれたのだが、僕たちの説明が上手くなかったせいで、しこ名を聞き出すのに一時間半くらいかかってしまった。

佐六さんの話ではしこ名は当然部落の中でしか通用しないが、部落の中でも通用しない時があったし、今の若い人はもう誰もわからないらしかった。覚えている範囲で、井樋尻、村副、道北、道南のしこ名を佐六さんはその由来を説明しながら書いてくれた。

その由来を説明していくと、まず、一ノ割(いちのわい)、二ノ割、一五、二十七などは大化の改新時代に区分田を30に分けた時に一〜三十の名で呼んでいた名残で、藪(やぼ)は昔、たぬきやきつねが住んでいたというやぶがあったそうで、川端はその名の通り川の横のことで、出口は、部落(民家)から田ん中への出口だからで、利工門田は昔、利工門という人が働いていたからで、木綿畑は昔、綿を作っていたところからで、廟角(びゅうがく)はお墓の近くであるからであるというように結構単純に付けられている名前であった。このしこ名はどのように使うかというと「君はどこに働きにいっているか?」という質問に「とんとんおちにいっております。」というふうに答えるといった具合に使っていたそうだ。

 

佐六さんは本当に親切な方で、いろいろな話をしてくれた。次に僕が理解できた範囲で印象に残っている話を述べたいと思う。

今は昔、大化の改新時代に猪ノ面の土地を30区分に分けたのだが、そのときはきちんと平等に分けたので畔道はまっすぐであったが、長い年月を経て圃場整備が行われる前には、畔道はぐにゃぐにゃに曲がってしまった理由があるそうだ。それは図で説明するといわゆる田ん中争いなるものがあったらしい

次は圃場整備が行われたときの話だが、国の役人と測量士が来て田ん中の面積をしたときに、佐六さんは手伝いをしたそうだがその時竹の棒にひもをつけて測ったのだが測る前に

といったように竹の棒を斜めにして100mぐらいのところを85mぐらいにごまかして自分の耕す面積をごまかしたそうだ。

 

昭和14年の大干魃のときには、佐六さんの土地にとべたの大堀という沼があるそうだが、村協議の結果、そこから水をとり出すことになり、偶然そこは地下水に通じており、何回汲み上げても、次の日にはまた水がたまるのでなんとかのりきることができたそうだ。

そこで少し感動させられたのが村の話し合いで、水争いをすることもなくその水でとれるだけの米をとり平等に分けるという農民の団結力はすごいと思った。

佐六さんは僕たちは九大生で歴史の勉強をしているといったにもかかわらず、ずっと役人だと勘違いしていたが、いろんな話を丁寧にしてくれて、貴重な経験になったと思う。

 

――水路について――

 僕たちの行った神埼町猪面地区では隣に川が流れていたため普段はそこから水を引いていたらしい。関は“一ノ割”に当たる位置(村の北東部)にあり、“やしきのいぜき”と呼ばれていた。その名の由来は村の名前を猪面とは別に“やしき”と呼ぶこともあったからであるということだった。残念なことは、僕たちの訪れた村には92才という高齢な方しか古老がいなく、うまくやりとりができず、プリントのように順序だてて聞くことができなかったことである。しかし、話の内容で、実は3時間近く1人で話されていたのだが、興味の湧いたことが二、三あった。1つは昭和14年のつまり今から50年以上も昔にあった昨年の水不足よりももっとひどい大干ばつについてである。当然のように隣を流れていた川の水をなくなってしまった。ところが、ぼくたちの質問した老人の持っている土地に“といべだおおぼい”と言われる一反六尺ぐらいの堀があり、そこの水をみんなで共有することになり、水を汲み取ってみると次の日には水が少しずつ留まっていて、実はその堀の水は地下水が湧き上がったものだということが分かり、それを使ったということだった。昔話に出てきそうな話でとても興味深かった。

他にも、昔の人の田畑の作り方や住居について、今とは違い自然を克服しようというのではなく、自然と共存しようとしていたことが分かった。圃場整備により効率的に水利を利用し、また収穫も安定するようになったかもしれないが、恐らく日本全国何の変わりもしない田園風景になってしまっただろう。道が曲がっていたり、起伏があったりという田園風景が圃場整備前にはあったらしい。

また、今は都市化が進み隣近所に誰が住んでいるかも知らない状態だが、前に述べたように干ばつの際には村全体で団結するという村の中での人々のつながりの深さを感じた。近代化により失ってしまったものの大きさを数えられた。



戻る