【神埼郡神埼町小渕、的、飯町】

歴史と異文化理解A 現地調査レポート

1TE96576 今林大造

1TE96835 上浜 基

1TE96616 薗田賢司

 

調査日:1996711(木曜日)

話者:徳川さん、松本さん82

 

1996711日木曜日我々(今林、上浜、薗田)は、佐賀県神埼町沿いの国道にある小渕という地に降り立った。我々の調査目的な、小渕、的(ゆくわ)の田ん中のしこ名調査及び水利調査である。

降り立った具体的な場所は、神埼町の水車の里(地元では有名らしい)であった。国道沿いであるため、道路には大型ダンプカーが多数行き交っていたが、国の整備が行き届いていないためか、ガードレールや歩道もなく、我々にはひどく危険に限られた。

右も左も分からない我々は、ひとまず近くに見えた酒屋に入り、役場の方角を訪ねた。店の方は非常に親切で、近くの神埼郡農協仁比山支所まで案内してくれそうだったが、我々は方角だけ聞いて、一路南へ農協を目指し歩いた。

農協まで10分ほど歩き役場の方に、田ん中に詳しい方を教えていただけませんか、と尋ねた。我々の目的と身分九州大学の学生である事を告げると、快く協力してくれた。

役場の女性の職員の方は特に親切で、真っ先に田ん中に詳しい古老の方々に電話を入れ始めてくれた。何人か当たってくれていたが、世の中そんなに甘いものではなかった。渡る世間に鬼ばかりである。やはり事前に連絡を入れていないと少々無理があるとのことであった。途方にくれた我々にその女性職員は、

麦の検査場に行けばおんさるかも知れん

と言ってくれ、しかも、自動車を貸してくれると言ってくれたが、我々の中には誰1人として自動車の免許を取得しているものはいず(自動車学校で第1段階の者がいて運転できそうだったが、危険なので避けた)彼女は自身が調べにいてくれた。麦の検査場まで。前述の世の中そんなに甘くはないと言うのも結構アテにならないものだと思う。やはり日本の方、特に佐賀の方は親切な方が多い。しかし、彼女の持ってきた土産は「田ん中に詳しい方は今忙しく手が離せない」という内容の、俺にとってそしてこの調査自体にとって残念なお知らせであった。

しかし、彼女の帰ってきたすぐ後に、農業協同組合の課長高尾さんがやってきた。彼に我々の目的、そして身分を伝えてみることにした。その後、約10分間事前連絡なしで突然やってきた我々の横着さに対しての説教をされるが、ここでは内容にあまり関係ないので省略する。

結局その後、高尾氏は「組長さん」の家のあり方を教えてくれた。厳しい人かと思ったが、その中に人間的な温かみが感じられた。実はいい人だ。一路「組長さん」の家に向かい、調査の進みそうな予感のした我々だったが、その直後、その希望はうちくだかれた。「組長さん」は仕事に出ていていらっしゃらなかった。再び我々は途方に暮れることになった。 2番目に時間の少ない我々にはもう一刻の猶予も許されない状況だった。

こうなったらその仕事をしている農家の方になんとか時間をいただいて直撃取材をするしかないと思った。すでにタイムリミットの半分は過ぎた時だった。再び北上して行くと、農家の方(夫婦)がちょうど昼ご飯を食べ終わり、午後の仕事を開始しようとしている所に遭遇した。いろいろ話を聞きたかったが、その夫婦はあまり詳しくなく、しかも忙しそうであまり相手にして貰えなかった。しかし「組長さん」の家に行けば話を聞けるだろうと言ってくれた。またかと思ったが、教えてくれる「組長さん」宅は先ほどたずねた家とは違うではないか、どうやら間違った家を訪ねていたらしい。「これで安心だ」と思って喜んでその家へ向かった。

その家を訪ねると奥さんらしき人が出てきて、主人は仕事に出ていて今はいないということを告げられた。奥さんにでも話を聞きたかったが、完成されついては詳しくないということで、断念せざるを得なかった。結局、頼りの「組長さん」にも会うことはできなかった。農家の人もどこにも見当たらない。我われの調査はかなりの困難を極めた。

またまた途方に暮れることになってしまった我々だが、話し合いの結果、結局もう一度役場へ行こうということになった。先ほどの女性職員に組長さんも農家の方も子にもいないという旨を伝えると、徳川さんのお父さんならどうだろうかということになり、タイミング良くちょうどその徳川さんという女性が外から戻ってきた。徳川さんの家へ電話してもらったら、徳川さんのお父さんは家にいらっしゃって、話を聞かせてくださるということだった。もう安心だ。やった。神様、仏様、役場様である。

徳川さんの家の場所を教えてもらい、われわれは役場を後にした。

徳川さんの家はそう遠くなく、 7分ほど歩くとすぐに見つかった。心踊らせながらインターホンを押すと、中から白髪の老人が出てきた。徳川さんである。徳川さんは頭は真っ白であるが、家はふさふさで、肌のツヤもよく、とても元気な人だった。 62歳ということであったが、もっと若く見えた。なかなかの男前である。

まず、われわれは自分たちが九大の学生であること、講義の一環として、田ん中の調査をしていることを告げ、地図を開きいろいろな田ん中のしこ名や場所を教えてもらった。

まず、我々の1番の目的であった田のしこ名について尋ねた。教えてもらった詳しいのは

一本黒木、二本黒木、三本黒木、四本黒木、五本黒木、六本黒木、草場(くさば)、やまさき、かわら、石堂(いしどう)、あかね、小出(こいで)、村中(むらなか)、山口(やまのくち)、新車(しんくるま)、けいぶい、などである。

山や谷にも、そのような名があったとのことであったが、徳川氏はどうも思い出せないようで、結局聞けずじまいだった。また、水路については、横落水道という名の水路を教えてもらった。

ここにきて初めてしこ名を引き出すことに成功した。とりあえず量は少ないが、そもそもの目的を半分くらいは果たしたことになろうか。マニュアルに載っていたように、しこ名を引き出すのはやはり結構大変で、なかなか理解してもらえなかった。だいたいしこ名の意味がわからずに、やや怒り出す人もいるくらいだ。意味が分からないからかどうかは分からないが。でも我々の態度はきちんとしていたと思う。まあとにかく、徳川さんは快く我々に説明してくれて、やはり自分の知っていることをいかせると嬉しいものなのでしょう。我々もその喜んでいるご老人を見るのはすごく気持ちがいものです。

ところで、ここまでしこ名探しが難しくなったのは、我々が「田ん中のしこ名、つまり役場とかにある名前とかではなくて、昔から使っていた独特の身内だけで通じる名前を教えてください」と言ったからなのでしょう。しかし実は、しこ名はあの地域では昔も今も案外変わっていないという事でした。少しは変わっているとしても、ほとんど変化ないらしいです。このことは後で出ていらっしゃる松本さんから聞いたことです。

 

干魃についても聞いてみたが、この辺では50メートルほどもある清流ダム(ママ)があり、水には全く困らないとのことだった。山があるところは大丈夫らしい。干ばつはまず起こらないだろうとおっしゃっていた。しかも、水は冷たいのでおいしい米ができるらしい。水が冷たいほうがおいしい米ができるというのは初めて知った。水を田んぼに引くのにも色々話し合いをするようだったが、昔は水泥棒もいたそうだ。しかも南部との争いもあったとか。南部の方が強かったらしい。

 

戦前は草切り場というのがあったそうだ。草切り場とは町の農家の人たちがそこの草を切り、それを肥料としてそのまま入れたり腐葉土にしたりするための共有の山である。そのころは、 1反当り6俵半から7俵ぐらいの米ができたそうだ。裏作もできるらしい。

普段何気なく食べている米だが、こういった人たちのいろいろな苦労、歴史があることを知った。これからはご飯を粗末にしないようしなきゃならない。

しかし徳川さんの話によると、最近は米の値段が下がり、政府の政策として減反もあり、農家の人達はかなり痛手を受けているそうだ。昔は米を作れ作れと言って田んぼをどんど増やしていきながら、今になって今度は田んぼを減らせ減らせと言う政策は全く勝手で、農家の人たちの気持ちを全く考えない自分勝手な考えを持った人間の集団の集まりだと感じる怒りすら覚えた。

跡継ぎについても聞いてみた。テレビなどでよく東北地方などの農家の跡継ぎ問題などについて特集しているが、ここ佐賀県でも跡継ぎについては、本当に深刻な問題であるようだ。やはり、今の若者は、田舎よりも都会に行きたいと思うのは当然であるし、ましてや、農作業もしたくないだろう。しかし、日本人の主食である米を作る人がいなくなったら、日本はどうなるのであろうか。政府はもっと、農家を支援して、若者が農作業するよう促す手段を何か考えるべきである

徳川さんは本当にいい人で、いきなりの訪問にも嫌な顔1つせず、いろいろな話をしてくれた。徳川さんの人柄のせいか、従来のような、農家が沢山抱えた問題や苦労を聞いているうちに、農家の人たちに心から同情し、政治家は悪い奴らだと感じてしまった。本当に頑張ってもらいたいものである。もっと色々な話を聞きたかったが、松本さんという方を紹介してくれた。徳川さんの話によると、松本さんは、町でいちばん田んぼに詳しいであろうと言うことであった。我々は地図で松本さんの家を教えてもらい、松本さんの家を訪ねることにした。

徳川さんの紹介で我々は松本さん宅に向かった。松本さんだけは徳川さん宅からそう遠くなく、 3分ほど歩くとすぐに見つかった。

家を訪ねると、松本さんの奥さんがいたが、肝心の松本さんは農作業に出て行て留守とのことであったが、まもなく帰って来るとのことであったので、我々は帰りを待つことにした。

しばらくして松本さんの息子さんが帰ってきた。われわれはとりあえず、息子さんの方にも話を聞くことにした。そこで先に紹介したしこ名をいくつか教えていただいた。息子さんは私のみたところでは50代後半というところであったが、意外にも田ん中のことに詳しく、徳川さんに聞いた話を裏付けるような話を聞けたので、やはり昔から農業をしている方がたにとっては知識というのも共通なのだろうと感じた。

息子さんと話をしているうちに、徳川さんに紹介していただいた82歳になる松本さんが帰ってきた。松本さんは年齢の割にとてもお元気なかたで、リヤカーを引いて帰ってきた。松本さんに聞いた話は、大部分が徳川さんに聞いた話と重なるので割愛するが、ここで得た新しい情報としては以下のようなものだった。まず我々の持ってきた地図を見て、松本さんはこの地図はずいぶん古いものなどとおっしゃった。現在、トラクターやコンバインを使っているので、地図にはない新しいノ農道ができているとのことであった。

また、この点については、私の推測に過ぎないが、松本さん宅にもやはり後継者はいないようであった。なぜなら洗濯物などにも、若い世代の生活がなかったのである。ここでもわれわれは農業者の跡継ぎ不足を痛感した。

松本さんに話を伺った後、われわれはお礼を言って松本さん宅を後にした。我々はここまでで十分な調査をしたと確信し、帰途につくことにした。



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