歴史と異文化理解A S1-15 944764 松本健太朗 目的地の池辺田についてまず近くに家にたずねてみた。おばさんがでてきて聞いてみると、あまりくわしくなかったので区長さんを紹介してもらった。区長さんの家をたずねると区長さんも昔からの土地の者でなかったので昔のことをよくしっている古老をおしえてもらい家をたずねた。家には不在で近くのビニールハウスにいるらしくビニールハウスに移動した。そこで大田一男さん(大10生)とシヅエさん夫妻に会い、いろいろとたずねた。 まず池辺田の水田のしこ名を聞いた。田のしこ名は地図にしるした。そのほかにクリークやほりのしこ名を聞いたが、とくについていなくて「〜のほり」というふうによんでいたそうだ。次に水利について聞いてみた。山田を通る城原川から水をとり入れていたらしい。昔は、池辺田と山田との境界に大きなほりがあり、そこから水を引いていたそうだ。今では小さなクリークになっており、のこった水は最後に筑後川に流し込むそうだ。このあたりは水が豊富で水争いなどはまったくなかった。昭和14年の大干ばつのときでは、他の村にポンプで水をくみ上げていたそうだ。昨年1994年の水不足のときにも多少水の量は減ったものの被害が出るほどではなかったらしい。またこのあたりは湿田がなくよい年で8表悪くても7表はとれたらしい。戦前は農薬などがなかったので、あぶらさしといって、田に油をまいて稲についた虫をほうきのようなもので油の中に落として、虫が身動き取れないようにして駆除をしていたらしい。また昔は化学肥料の代わりにいわしを干してつぶした、しめかす、大豆のかす、わたみかすといって綿のたねのかすなどが使われていた。また一家に一頭は馬がいたらしく、馬糞などもつかわれていた。このあたりは二毛作がされており、なたねや馬の飼料としてそらまめなども作られた。また田の間のあぜ道には、大豆がうえられてとれた大豆は自家製のしょう油や、みその原料として使われた。田と田の間で標高差がある場合は、低い田の方に水が集まるので高い田の方が大豆をうえる権利があったらしい。 地質は池辺田では粘土状、山田では砂地状らしい。近くを通る城原川は昔、年に2、3回ほど堤防がこわれていたため、山田の方では不作があったそうだ。昭和28年頃になって、やっと堤防が改修されたそうだ。干ばつの時には池辺田では各家5〜6台あった水車を運び出し、暑くない夜明け前からクリークの水を上げていたらしい。また今でも水車が残っているらしい。 またクリークの水をひき上げてフナやコイなどをとって干物やくんせいなどにして冬のたんぱく源にしていたらしい。 最後に今後の日本の農業について語ってもらった。池辺田ではビニールハウスや水田は60〜70代の老人の人々が手入れをしていて、若い人たちは休日を利用して田を見ているらしい。現在では専業農家はなく、みな兼業農家らしい。一番の問題はやはり後継者問題らしい。また外国の作物も気になるらしい 〈感想〉この現地調査について思ったことは、最初は、これほどめんどうくさくて、きつい課題はないと思っていた。しかし、終わってみれば、人とのふれあいがあったため、かなり、心あたたまる気分になり、充実感にあふれていた。パートナーの友達と、二人でたぶん大学に入ってこれほど気合いれてやったのは初めてやね。と言っていた。大変勉強になったと思っている。 |