【神埼郡神埼町祇園原、迎田、土生】 歩き、み、ふれる歴史学 現地調査レポート SI−31 1AG96231 村上 春樹 1AG96234 森 亜砂美
<現地調査にご協力していただいた方々> 祇園原 多伊良 ヨシエさん(89歳) 井手 八戸野 操雄さん(大正9年生 76歳) 土生 三好 義人さん(73歳 前区長) 迎田 柳川俊二さん(故人)の奥さん(?) その他生産組合長、現区長さんなど多数
*しこ名一覧
*水利について
*古老から教えていただいたこと ・てっぽば(鉄砲場?) 以前ここには大砲をうつ練習場があり、日の隈へ向け撃っていた。 ・がっこうやしき(学校屋敷) 昔ここには学校があった。 ・わたりば 昔ここには橋があった。 ・神埼町 西郷村と仁比山村と神埼町が集まって今の神埼町ができた。…「神埼町史」より ・日の尺の堤(日の隈の堤) 田に水を引くと、一日に一尺ずつ水位が下がる為この名が付けられた。「いび」を開けて放水する。 ・横大路の水路 仁比山、久保泉および西郷 三ヶ村の組合で維持していた。…「神埼町史」より ・朝鮮松 鍋島勝茂(泰盛院)が朝鮮から持ち込んで植え付けた。1本しかない。…「神埼町史」より ・迎田と井手は昔いざこざがあった。(詳細不明)
*一日の行動 祇園原まず祇園原に向かう途中、一本だけ独立している松の木が見えた。地元の人によると「朝鮮松」というらしい。神埼町史によれば、鍋島勝茂(泰盛院)が朝鮮から持ち込んで植え付けたものだそうだ。
やや歩いて祇園原に着く。村のおばあさんの紹介で、土生にいる生産組合長と区長に会いに行くことにした。「てっぽば」と「ぜんもんごや」というしこ名を聞いた。しかしこれは土生のものであり祇園原のものではなかった。組合長によると、「祇園原のことは祇園原の人に聞いた方が良い」そうだ。 再び祇園原へ向かう。とりあえずゲートボール場を探し、年配の方を見つけようと祇園神社に行った。しかしそこはゲートボール場ではなかった。その帰り道、一人のおばあさんがひなたぼっこをしていたので聞いてみることにした。しかし、目が悪いので見えないと言って断られたが、隣の家の人が詳しいと教えてくれた。が、その隣の家は留守で子供しかおらず、その子にゲートボール場を教えてもらい、そこへ行くことにした。その途中、ドラム缶運びの仕事を手伝い教えてもらおうとしたら、胸に「佐大農場」という文字があったのであきらめた。その直後、吉川・山下ペアにばったり出会い、しばし立ち話をする。そしてやっと目的の地に着いたのだが、まだ試合中だったので待つことにした。だが、まだ数人しか2番ゲートを通過しておらず、ずいぶんと時間がかかることが予想されたので、他をあたることにした。そこで、前出の吉川・山下ペアに紹介された多伊良ヨシエさん(89歳)を訪ねてみた。まず祇園神社を中心に東が「小林」、西が「祇園原」、「小林」の南が「野畑」、その北が「轡田」といったようである。これは小字ではないかと思い別の聞き方をしたが、それでも答えは同じであった。やや疑問は残るものの、取りあえず次の迎田へ向かうことにした。 迎田時刻は11時半、昼時であるため昼食を摂ることにした。田舎であるこの村にも、テクノ九州の工場などの進出によりアパートが建ち、そこにはこのあたりで唯一ともいえる自動販売機があった。喉も乾いていたためそこでジュースを買い、近くのブロック塀に腰掛けて食べることにした。食べ終わるとすぐに迎田へ向けて歩き出した。 家の庭で作業している婦人に話しかけると、以前にも自分達のような学生が来たと話してくれた。それから八戸野さんという方が詳しいという情報を得た。その人を探していると、あるご老人に出会った。そこでしこ名について聞くと、「迎田は迎田の人が詳しい」と言われ、今居る所が井手と気付いたため八戸野さんに会うのを諦め、また迎田に戻った。それから2軒回ったがどちらも不在又は私用の為答えを聞けず、迎田については何の情報も得られない状態になってしまった。仕方なく、もしかしたら区長が知っているかもしれないと思い、土生に向かった。 土生しかし、土生にいた区長さんは元は農家ではなかったらしく、全く分からないと言っていた。その代わりしこ名について詳しそうな人物とその家を教えていただいた。が、区長の話によると、その詳しい人物は仕事に出ていたりして今は多分いないだろうと言われた。仕方なく、もう一度多伊良さんの家に向かい迎田の事を聞いてみた。しかし返ってきた答えは、「迎田のことなら井手の人にも知っている人がいるかもしれない」だった。 そこで井手に向かい外に出ている人を探した。二人の女性の方に「男じゃないと分からない」と言われたので、おじいさんを探した。ものの2〜3分でおじいさんを見つけ話を聞いた。迎田のことは聞けなかったが、その他のことで貴重な話を聞いた。後で気付いたが、この方が八戸野操雄さん(76歳)であった。 もう一度迎田へこのままでは迎田については何の資料も作れないので、もう一度迎田へ足を運んだ。先刻、庭で作業していた婦人に聞こうとその家に行くと、今から出かけようとしているところであった。にも関わらずその婦人は「家の中に主人の資料があるから」と家にあげてくれた。ご主人こと柳川俊二氏である。彼は故人で、生前神埼町史を編纂したメンバーの一人であったそうだ。彼がご存命でなかったのは残念だが、幸いにもそこには多量の資料があった。土地台帳のようなものが沢山あった。この家は地主だったらしい。台帳を見ても記されてあるのは「小林2135―」というようなものばかりであった。故人の奥さんによると、その数字は農地の番地だそうだ。又、他にしこ名らしきものもあったが「家の前」などで故人のみのものであったようだ。しかし一つだけしこ名となりうるものがあった。「辯(弁)財天うら」である。弁財天は村民共有のものであるために、しこ名として成り立つであろうと思われた。その他数々の資料を見たが、何一つしこ名といえるものはなかった。そこで圃場整備が行われた当時の区長さんならば何か知っているかもしれないと思いその人の名前を伺って、前区長の三好義人さん(73歳)が住む土生へみたび向かった。 残りの時間も後一時間ほどどなり、これが最後の聞き込みとなった。一度ご老人に三好さんの家を聞き、なんなく家は見つかった。「いないかもしれない」という不安をよそに、三好さんは玄関におられた。そこで祇園原と迎田について尋ねたが、ほとんど以前の情報と変わらなかった。ただ、祇園原にある小林、野畑、轡田、祇園原の境界と土生ではあるが、そのしこ名がいくつか判明した。 祇園原から土生、また祇園原、それから迎田、井手、迎田そして土生、また迎田、その上土生と、延べ5時間は歩いていただろうか。晴れていて良かった。しかしこれだけ歩いたにも関わらず得られた情報が少なかったのは残念だ。なにしろ不在の人が多すぎた。運が悪かったのだろうか。しかし久々に音のあまりない空間に立ち緑を楽しみ、お年寄りに話を聞いたためだろうか、5時間も歩いたわりには疲れをそれほど感じなかった。 最後に一言、「駄菓子屋っていいなぁ〜〜〜」 |