歴史と異文化理解A 課題レポート

姉川西分作出

                   岩崎嘉宏

                                 江川慎一

                                 烏星良次

 

 佐賀についてまず農家の人に農区長の家の場所聞き、農区長を訪ねた。ところが、農区長は佐賀市の方にお寺参りに出かけていて留守だった。農家の人の話では帰って来るとしても昼より後で、いつ帰ってくるかは分からないということだったので、公民館長の家の場所を教えてもらって、そこを訪ねることにした。

 しかし、公民館長も何かの集まりで出かけていて留守だった。仕方なく農家を訪ねてまわったが、しこ名について知っている人もなく、途方にくれていた。そこに同じくその日に調査に来ていた、佐藤君と浦川君に出会った。彼らは姉川東分を調べていて、農区長の家を訪ねるところだったので、僕たちの車で一緒に行く事にした。

 農区長の家を訪ねたところ、農区長は公民館で集会に参加しているとのことだった。周辺の家を回ってみたが、特に情報も得られず、結局佐藤君たちは公民館に行く事になったので、ぼくたちも何か聞けるかもしれないと、一緒に行く事にした。

 公民館では御老人方が集まれていて「これはいけそうだ」と思ったが、やはり西分のことについてはほとんど何も分からず、せいぜい東分と西分の境界線が分かったくらいだった。佐藤君たちは色々聞き出せていたようで、時間がかかりそうだったので、僕たちは先に公民館を訪ねることにした。

昼食をとって再び西分の農区長の家を訪ねてみたが、やはり留守だった。家の人の話では来週からは忙しいということで、会うのは不可能となった。家の人の知り合いにも色々聞いてもらったが、とにかく昔の話で誰も知っている人もなく、僕たちは行き詰まってしまった。仕方がないので公民館で佐藤君たちをひろって、服部先生のいるバスの所に行くことにした。

先生に事情を説明すると、一応東分の調査にもつき合ったということで、佐藤君たちの班とくっついて5人で一つの班となることになった。

以上が東分の調査と一緒になったいきさつです。

 

 

集まっていることが分かった。そこでそこにお邪魔することにした。公民館で話し合いが行われていたが、ちょうどお昼休みの頃だったので、僕たちの申し出に快く応じてくれた。地図への記入は村の古老と呼ばれる人たち数人が話し合いながら記入して頂いた。よって一人の意見ではないので覚え間違っていたり勘違いなどのミスの確率は極めて少なく正確であるといえる。

 

地図を記入して下さった方の代表者

農区長 宮地玄彦(ミチヒコ)S2生まれ

 

しこ名調査以外のことについて

1 村の水利について

 この地域ではクリークが非常に発達しているので用水の不足ということはあまりなかったらしい。この地域は以前鍋島氏の支配下にあり、野田城という城があったが(今は城跡になっていて若宮神社という神社になっていた)クリークは野田城の防備のためにも非常に役に立っていたらしい。(クリークがたくさんあったために城に行くまでの道が細かったので)よってこの地域は水に恵まれた土地であるために、今年の大渇水も特に水害対策することなく乗り切ったらしい。また昭和14年にも大渇水であったが、村の人たちの協力でその年は豊作であったという。

 他に農業用水の確保としては井戸水や淡水(海水を堰き止めて水をため比重を利用して上澄みの水だけを使う方法)などがあった。

 

2 収穫量や肥料について

 収穫量            戦時中 反当たり              4俵

                            整備前 〃                         8俵

 化学肥料を使う前の肥料              大豆のかす、干鰯

                                                        牛馬の糞(藁をかけて腐らす)

                                                        下肥(これは戦時中のみ。一部の家庭で使われた)

 

 



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