歴史と異文化理解A現地調査レポート

佐賀県神埼郡神埼町姉川西古賀

SI-17 944836田河勝吾

944838田中信介

o調査日19941226

O調査地および調査内容

佐賀県神埼郡神埼町西古賀近辺の水田における圃場整備前の通称(しこ名)および水利等の調査

o調査のながれ

AM9:00

一緒に取材に出かけることにした大和・杉浦組と共に六本松を出発。荒江から、野芥方面へ進路を取り、三瀬瞭を越えて佐賀県へ。昼食を済ませた後午後1時前に現地到着。

PM1:00

打合せをして、それぞれの組に分かれ調査開姶。

PM1;00

車を止めた国道34号線沿いから農家らしい家を探す。

(1件目)国道沿いの農家らしき家。御主人が不在のため、水田のことに関しての情報はないが、国道をはさんで向かい側(南側)の西岡さんという人を紹介していただく。

(2件目)西岡さん宅を訪問するも、御主人が留守のため取材できず。この時点で、調査地の西吉賀が国道の北側になることがわかった為、そちらの方の家々をあたることにする。

(3件目)西古賀周辺の農家をあたる。「天神様」と地元の人が呼んでいるお宮の側の一軒に立ち寄る。若い人だった為、水田に関しての情報は得られないが、隣の家の田中さんというお年寄りを紹介していただく。

(4件目)田中さん宅を訪問。水田のことに関しては「知らない」と言われるが、代わりに、姉川西分区長の荒木直さんを紹介していただく。

(5件目)区長の荒木さん宅を訪れる。結局こちらのお宅でお話をいろいろと伺うことができた。

o調査結果

《土地の通称(しこ名)について》

調査地域一帯の圃場整備後の小字は、「○○本松(壱〜拾六)」となっており、西古賀」地区は、「拾四本松]の区域にあたり、現在8戸の家がある。さて、肝心の「しこ名」であるが、圃場整備前の水田には水田23区画ごとに付けられた「しこ名」が「西古賀」地区にも存在していた事までは確認できたのだが、それを知る方がもはやいらっしゃらなかった。8戸の家々のうちのかなりの家庭が4050代の若い御夫婦で、当然ながら御存じなかったのだが、頼みの区長の荒木さんも覚えていないとの事で、どうしようもなかった。ただ、大まかな「しこ名」は荒木さんが教えてくれた。

「西古賀」地区の北寄り中央には、地元の人たちが「天神様」と呼んでいる小さなお宮がある。「西古賀」地区は、以前はこの「天神棚の側を通っている劇防向に延び

る道路(現在は幅3mほどの舗装路になっている)を境にして、西側一帯を「境堤(さきゃんで

)」東側一帯を「天神角(てんじんがく)」と、通称で呼んでいた。その他、「西古賀」以外のところでは、神埼町の南縁の、国道の東の地域(拾参本松)は「孫宗」(まごそう)」、その北の拾弐本松地区の国道より東の地域は「北古賀(きたこが)」、「西古賀」地区のすぐ北側、拾五本松地区にあたる地域は、「ひえじ(漢字は分からないとのことであった。

いとの事)」と呼ばれていた。

《地域の水利について》

地図Uに沿って説明する。まず、この地域の灌概の要となるのが地図中央付近を北から南へ向かって流れる城原川(じょうばるがわ)である。この城原川にいくつもの井堰が設けられており各地域へと水が引かれているが、このうち「西古賀(姉川西分)」地区の灌概に古くから深く関わっているものは上流のほうに位置(地図中央上)する「三干石堰と、下流側(地図中央)の「姉川堰」の二つである。

「三千石堰」は上流に位置するため、昔から旱魅に関係なく水の豊富な井堰である。本来この「三千石堰」は遠くさかのぼって江戸時代に、藩の直轄田(現在の神埼町と佐賀市の境界周辺《地図左下「和泉野」あたり》)に水を引くために作られた井堰で、井堰から直轄田まで引かれている水路の水は一般の農民は使うことができなかった。そこで当時は、夜間に監視の目を盗んでこっそりと水を引くようなことしかできなかったそうである。しかし、藩体制が崩れ、直轄田そのものの存在がなくなると、もともと土地が南から北へと下って傾斜しているため、南の地区への水漏れが激しかった「三千石堰」から元直轄田への水路の水は、主に水路の南の地区の灌概に利用されるようになり、さらには水路より北の地域の農民もこの水路から水を汲み上げて使うようになった。「西古賀(姉川西分)」地区付近もこの例にもれず、付近の水路にこの水路からの水がおのずと(何も手を加える必要なく)流れ込むため、圃場整備以前から今でも灌概の主要水源となっている。ちなみに「三千石堰」から元直轄田へと伸びている水路は「横落水路(よこおちすいろ)」と呼ばれていた。余談であるが、藩体制が崩れた後、元直轄田の地域では、「横落水路」からの水があまり得られなくなってしまい、地下水を引いて灌概をするようになったとのことであるが、この際、水をいわば「横取り」した農民達とのいざこざは特に無く、むしろ、元直轄田地域の農民が一歩引いて地下水を掘り、灌概するようになったそうである。

「姉川堰」は、「三千石堰」から2qほど下流、地図のほぼ中央付近にあり、すぐ下流に「横武」地区へ水を導く堰がある。「西古賀(姉川西分)」には、この「姉川堰」から、西の「蛇取橋(じゃといばし)」・「へぼのき樋(どい)」・「てがたの井樋(いび)」を経て、水が引かれる。「三千石堰」同様、「西古賀」地域の主要水路となっているが、城原川の水量が「三干石堰」付近に比べるとかなり少なくなっており、また、「てがたの井樋」の分岐点から水が南の「中地江」地域に流れてしまうため、取水点としての重要度はあまり高くない。さて、「てがたの井樋」を通った水は、佐賀市と神埼町の境界に沿った水路と、現在の伊賀屋駅のすぐ西側の水路の2本に分かれ南北に流れる。そして前者が「西古賀」地区に流れる。後者のほうは、現在の伊賀屋駅の近辺、水路の東側の地域の灌漉に使われているほか、昔はヤミ米運びのルートとして使われていたということである。ところで、この水路の途中に「そうめん井樋」と呼ばれていた堰がある。この名は水路西の「傍示野(ほうじの)」「和泉野(いずみの)」という地域と関連がある。現在この地域はダムからの水により灌概を行っているが、昔はよく旱魃に見舞われていた地域であった。旱魃の年には、「傍示野」「和泉野」の農民が、水路西の農民に頼んで水を引かせてもらい、そのお礼としてそうめんを渡していた、というのが「そうめん井樋」の名の由来である。先に述べたが、昭和2030年頃にダム取水工事が行われ、ダムから水を引くようになったため、この地域の水不足は解消されているとのことである。

次に淡水(あお)灌概についてであるが、「西古賀」地区は比較的水に恵まれているため、淡水取水は行っていないが、有明海の大きな干満差のため、取水自体は可能である。下流に位置する干代田町では、水不足に陥りやすいため、この淡水取水に期待している。

最後に、1994年夏の水不足への対策はどうだったかを伺った。「横落水路」以南では比較的豊富な水量を得られるため、特に目立った混乱はなく、「西古賀」地区でも水不足はなかったとのことだが、「横落水路」以北、すなわち水路より高いところにある地域では水が足りなくなり、一日中「横落水路」からポンプで水を上げたそうである。

《農耕の様子。農作物の作況など》、

「西古賀]地区は、元来水に比較的恵まれているという土地条件を持っため、米の収穫高はある程度一定している。圃場整備前の収穫高は、だいたい反当たり99.5(1俵一60s)で、これは戦前の数値より若干少ないという。理由としては、第一に、米の品種の違いが挙げられる。つまり、戦前戦後の食料難の時代には「質より量」的な農耕が優先されていたため、多収量品種の稲が多く栽培されていた。第二次大戦が終わりを告げ、昭和30年代後半から40年代にかけての高度成長期に入ると、農耕・食生活共に安定し、米作りも次第に「量より質」的な栽培を手がけるようになったのである。

第二に、「西古賀」周辺一帯では戦後も化学肥料(有機肥料)をあまり使わなかったことである。荒木さんのお話では、化学肥料は高価なため経済的にかなり苦しくなろてしまうから、とのことであった。

次に、裏作。二毛作についてであるが、西古賀地区は土壌的には湿田もなく問題ないのだが、昔から裏作・二毛作はあまり行われておらず、昔でも麦を45反作っていた程度で、現在ではほとんどやっていないとのことである。裏作・二毛作があまり行われない理由としては、昔は、土を掘り起こす・あるいは整地するのを馬を使ってやっていたので苦労が多かったから、現在やらないのは、やはり準備に手間がかかることと、裏作で作る麦などがあまり収入にならないことなどからである。その代わりに「西古賀」地区では、稲作のシーズンが終わると、その後にれんげ草を植える。れんげ草は土を肥やす働きがあり、昔から、収入の少ない裏作よりもこのれんげ草の栽培のほうが盛んに行われてきたということである。

《その他伺ったこと》

現在「西古賀」地区の区長を務めていらっしゃる荒木直さん宅では、水田のかつての通称や村の水利などに関しての貴重なお話をしていただいたうえ、現在の農家全般の状況や、これからの農業の展望についてなどのお話も伺うことができた。

ここ数年来日本の農業人口は大幅な減少を続けている。その原因としては若い人の農業離れからの後継者難や、農業だけで得られる収入が少なくなってきており、農業だけでは生活を成り立たせることが難しくなっていることなどが挙げられる。実際最近では、農家のほとんどが兼業化しており、副業の収入に依存せざるを得ない状況となっている。荒木さんのお宅では、息子さんが平日の会社勤務の合間を縫って日曜などに農作業を手伝ってくれるそうだが、後継問題となるとやはり不安だという。

このような状況下で、農家が生き残るには農家間の「協力」が必要であると荒木さんは言う。例えば、数軒の農家共同で購入した高価な農機具は、一軒の農家が単独で購入し使用するものより使用頻度が高い為、より細かなメンテナンスが必要となるがその共同化がうまくいかない、あるいは米作自体の共同化がもっと進めば効率も上がるのだが、実際はうまく行かない、などの現実がある。それらに影響しているのが、農家の保守的な姿勢であるという。基本的に、新しいことをやろうとするのに対して、農家の人たちは積極的ではないそうである。それは、何かをするにあたっての経済的負担の面も少なからず影響しているだろうし、面倒事には関わりたくない、現状のままで良いという考え方も裏側にあるからかも知れない。

先程も述べたが、現在の農家の置かれている状況は非常に厳しい。だが、そんな中でも、損得は抜きにして農業はずっと続けていきたいと荒木さんは言う。「西古賀」地区の家々が苦しい経済状態のなかでも農業を続けるのは、先祖代々の土地を守るため、というのがほとんどの人たちの考えだそうだ。自分たちの先祖が苦労して開拓した土地を簡単には手放せない、という事であろう。

O取材を通して感じたこと

取材に出かける前は、「しこ名」の存在すら疑っていたので、さあ調べよう、と思っても途方に暮れるばかりであったが、大まかではあったが「しこ名」についても教えていただけたし、「しこ名」の話にとどまらず、水利の歴史的な背景など僕たち自身がまったく無知だっただけに、まさに驚きの連続であった(「横落水路」の話が江戸時代にまでさかのぼっているのには正直言って恐れ入った)。それにしても一番興味深かったのは、やはり現在の農家の状況であった。ふだん農家の方と面と向かって話をする機会など無いだけに、次第に荒木さんの話に聞き入ってしまった僕らであった。

農家の状況は厳しい。だがそんな中でも農業は続けたいという農家の方々の気持ちが痛いほど感じられた。これから先、本当に農業は成り立っていくのだろうか。先日も輸入リンゴの事が話題にのぼっていたが、荒木さんのお話を伺っていると、次々に自由化される農産物、どんどん縮小していく日本農業と、何だか光と影を見ているようで、外国の圧力にだらしなく負けてしまうだけの日本の政府に疑問を感じてしまうし、何だか情けなくなってしまった。農家の方々にはこれからもぜひ農業を続けて欲しいと心から思った。

O最後に…

今回、姉川西分区長の荒木直さんにはお忙しい中、大変貴重なお話をたくさん聞かせて頂きました。最後になりましたがこのレポートの紙面を借りてお礼申し上げます。



戻る