歴史と異文化理解A 課題レポート

姉川境古賀・中古賀

                   宇賀村忠慶

                                 浅田 拳吏

 

 最初に出会った50歳ぐらいのおばさんに、まずいろいろ聞いてみたが、しこ名は覚えていらっしゃらなかった。そこで境古賀と中古賀の境目がどこか、肥料はどんなものを使っていたか、水利はどうだったかを聞いてみた。肥料は詳しくは知らないが「ひもの」のようなものを使っていたということであった。

 水利関係のことも川の名前も覚えていらっしゃらず、近くの川としか教えてもらえなかった。あと一反何俵の米がとれるのかということも聞きたかったが、「今忙しいから区長さんの所に行きなさい」と区長さんの家を教えていただいた。

 区長さんの家を訪ねていろいろ聞いてみようと思ったが、不在だった。数十分待っていたが帰って来られなかったので、手当たり次第に家を訪ねてみることにした。

 訪ねた家は以下のとおり。

     境惣一さん宅……不在

     境信夫さん宅……不在

     境晴夫さん宅……不在

     境定さん宅……不在

すべての家が不在だったのであきらめかけていたが、何軒目かに訪ねた家のおばさんは快く質問に答えてくださった。おばさんのお名前は境ツヤ子さん、72歳の方だった。

質問の内容はまずしこ名、そして水利のこと、昔使っていた肥料のこと、反収、裏作ができない田のことであった。

 しこ名は方角で呼んでいたらしく「南のたん中、北のたん中、東のたん中、西のたん中」であった。それに加えて「でえにし」というしこ名も教えて頂いた。「でえにし」に関しては「土手(「でえ」と呼ぶらしい)の西にあるから「でえにし」というしこ名です」と説明までして頂いた。

 水利はやはり川やほりの名前は覚えていらっしゃらなかったが、「『ほい』に水車を設けて、それからたん中に水をやっていました」とおっしゃられた。

 肥料は人糞や堆肥を使っていたと教えて頂いたか。その理由は、その辺りの土地などを使った方がよりよい状態になるからだそうだ。

 反収については「人に任せてあるからはっきり分からない」と言われたが、だいたい10俵〜13俵前後とれたということであった。米不足のときはやはり10俵もとれなかったという話だった。

 裏作については「やろうと思えば、どこでも麦作はできると思いますよ」ということであった。

 おばさんは、どこかへ出かける準備をしている時であったが、本当に丁寧に教えてくださった。

 次に先程のおばさんから「私よりも年が上だから知っているかもしれない」と紹介された石井さん宅を訪ねてみた。

 だが何かの測量と勘違いされ全く話が通じなかった。ちなみにお孫さんが九大生だということであった。

 次に宮地さん宅を訪ねたら6070歳ぐらいのおばさんがいらっしゃったのでいろいろ聞いてみた。

 宮地さんの家は小路に入るらしく、中古賀と小路の境目はよく分からなかった。

 しこ名に関しては「私の夫ならいっぱい知っているけどねえ」ということで覚えていらっしゃらない様子だった。その他の質問もしてみたが、ほとんど分からないということだった。

 そこで、仕事に出ている宮地さんに直接しこ名を聞くことにした。宮地さんの家の前であぜ道の所で何やら作業をなさっていたので、しこ名を教えてくださいと頼んだが、

「ああ。今忙しいからだめ。もっと暇な時に来てたらねえ」と断られた。

 時間がかなり遅くなっていたので残念ながらここで作業を終了することにした。その結果、中古賀・小路のしこ名は一つも聞くことができず、境古賀の五つだけしか分からなかった。



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