【神埼郡千代田町詫田西分地区】

S1-16  944808,806木地正美、川久保綾

歴史と異文化理解レポート

 

私達は、佐賀県神埼郡千代田町詫田西分地域一帯の現地調査のため、詫田西分の区長をされている野中正夫さん宅をたずねた。野中さんは昭和五年二月一日生まれの六十五歳、平成六年から現地の区長をなさっている方である。この村は86世帯からなる。

 まず、詫田西分の村の範囲をたずねた。この村はかなり広く、詫田本村、津芦、山賀、白石の小地区からなっている。

次に田のしこ名や、堀や橋の名称を尋ねた。

「高志前」は、詫田の北の方角に位置している高志という村の手前一帯の地名である。「大神宮」には昔、天照大神を祭った石が置いてあったが、圃場整備の際に若宮神社へ移されてしまったということである。

「森の木」は、圃場整備前は木が生い茂って昼間でも入っていくのが怖いほどだったらしい。

高志前にある下馬橋(げばがばし)は偉い人でも馬を下りなければいけないような橋だったのではないかと野中さんはおっしゃっていた。

この村の北端にある西ビョウタン、東ビョウタンという堀は、どちらもその形がひょうたんに似ていることから付けられた名前である。

野中さん宅の前にある堀は、祭堀といって昔からここで捕れたフナやコイを毎年十二月に行われる祭の際に若宮神社へ奉納しているらしい。しかし水道が普及した今では家庭排水などで堀の水が汚染され、捕れる魚も奇形のものばかりということである。その他の堀はほとんどその近くに住んでいる入の名前を取って○○さんの堀などというそうである。また、野中さん宅前には堰があり、ここまで有明海の水が流れてきており、塩分濃度が高くなっていて、時にはムツゴロウの姿も見られるということである。堀の深さは約3メートルもあるらしい。

農業用水対策について尋ねてみた。水不足の昨年に限らず、毎年各農家は水の確保に必死のようである。水争いは毎年のように、隣村はもちろん隣の家とも起こるということである。それぞれの田に高低の差があるのもその原因のひとつである。高い位置にある田ほど、水が乾くのが速いので、水を確保しようとするのだが隣の田と折り合いがつかなくなくなり、そんな争い事をまとめるのも区長さんの役割とあって、野中さんも苦労していらっしゃるようである。水は水車で汲み上げるという方法であったが、体重が60キロ以下の人は一人では回せなかったらしい。

米の収穫などにっいても尋ねた。この村の土地はどこも肥沃で、米の収穫の状態も非常に良いということである。圃場整備前は反当り約7.5俵の収穫があり、肥料には堀からすくった泥を用いていたらしい。今は化学肥料を用いているが米は昔と比べて病気に弱いそうである。人間でも贅沢をすればするほど病気が多くなっているともおっしゃった。

また、この村のどこでも、裏作として麦を作っているそうである。最近では大豆やイチゴの生産を行っているところも見られる。また、この村を含む地域では、周出川の西側にあたり、300ミリ以上の雨が降ると、堤防が決壊し洪水になる恐れもあるそうである。

昔は野中さん宅前の堰まで船が行き交っていたらしい。船で有明海にでるまで2時間程度かかったということである。陸上を馬で荷物を運搬する方法もあったが、船のほうが一度に多量の荷物を運べるとあって、盛んに船が用いられていたようである。船が行き来できるように、堀にかけられていた橋も、下に開いた放物線状の橋であった。橋の幅は馬がちょうど通るぐらいだったという事であるから、さほど広くなかったものと思われる。橋の修理も、5年に一度行われていたということである。

この地区一帯には弥生時代を中心とする貝塚が存在し、野中さんの田でもカキの貝殻や土器の破片、黒耀石の矢じりなどがでてくることがあるらしい。近所でも甕棺に入った遺体などが出土したということである。この地域には吉野里の卑弥呼の家来がいたのではないか、と野中さんはおっしゃった。私達も帰りに近くの田を見てみたが、たしかに土器の破片と思われるものが至る所に落ちていた。

予想以上にこの地域は歴史的に重要であることに気付き,驚かされた。野中さんからもいろいろな話を聞くことができて非常に勉強になった。