【神埼郡千代田町詫田東分地区】

歴史と異文化理解A

ST−16 944807 川崎敬三

ST−16 944804 狩野健

 

しこ名が分からなかったので手紙を送ったのですが、まだ返事がきていません。

 

 佐賀についたら店に行って、紹介してもらった人の家を訪ね、話を聞いた。しこ名について聞いたけど、しこ名については全く分からなかったので、水利関係の話をいろいろと聞いた。

 

・用水の水源はたで川(筑後川に続いている)であった。堀から田ん中に水を入れるときは水車(みずぐるま)と呼ばれるもの使って人力で田んぼに入れていた。過去に水争いはなかった。

 

・1994年の水対策について

 1994年の夏は例年にない水不足であった。そのため、田ん中に入れるための水も不足して、堀にある水も少ないような状態であったので、いろいろなことが行われた。

 

 7月21日〜24日

  水不足のために筑後川の水も塩分を含む量が多くなりつつあったので、塩分測定器を使って塩分濃度を測ったが、問題なかったので淡水を取水して利用していた。

 

 8月6日

  淡水の塩分濃度が稲の塩分に対する限界値の5400ppmになった。そのために、塩害が発生し、稲の穂先は枯れ始め、根は黒く変色してしまった。淡水を取水していたあたりまでムツゴロウが来るようになっていた。

 

 8月17日〜19日

  国営・県営水路から発電機を使って24時間水をくみ上げた。

 

 8月27日

  この日に夕立が降り、水の量が多少回復した。そのため、犠牲田をする必要はなかった。

 

 8月28日〜30日

  筑後川で淡水の取水が可能なのは迎島あたりまでさかのぼっていた。そのため、迎島から発電機を使って水をくみ上げた。そしてその水を村の田んぼまで持ってくるために、堀をいくつも中継して発電機を使ってくみ上げていった。

 

・淡水の取水方法について

 筑後川は潮の満ち引きによって淡水の取水ができる日が決まっている。淡水の取水が出来る日は旧暦の1日と15日の前後8〜11日間である。そしてその日の朝と夜の1日2回だけである。旧暦の1日と15日の前後は満潮に当り、筑後川の水面があがる。そのため堀の水面も上るため、取水が可能となる。

 

 筑後川の中でも淡水の取水が可能な地域は鐘ヶ江大橋より上流だけである。そこより下流は塩分濃度が高いために淡水の取水はできない。また、先ほど述べたように、1994年の夏はその部分が迎島までさかのぼってしまった。

 田ん中へ水を入れるのには灌水機を使う。この灌水機1つで田んぼ約15丁(1500ヘクタール)に水を入れることができる。

 

・井樋番

 1994年の井樋番は1回につき平均4人ずつでやっていた。7月〜9月3日まで、朝と夜に2時間づつ交替でやっていた。この朝と夜の2時間(1日4時間)が淡水を取り入れた時間である。井樋番の手当てについては、まだ決まっていない。堀の所有権については、水利組合を作って管理しているので、個人の所有権はない。

 

・田ん中について

 圃場整備前

  田ん中にも良し悪しの差があった。自然水を利用してできる田ん中は良田であった。また、図のように、堀に沿った田ん中は低くしてある。これは洪水のときに、低い田が放水の役目をするのである。このため、低い田ん中はあまり良くなかった。

  図省略(入力者:田中)

 

  稲の収穫量は圃場整備前は反当8俵半くらいであった。戦前化学肥料が入る前は、7俵ぐらいであった。これは稲の品種が違うため、量が少なかった。このころは肥料がなかったため、堆肥を作って使用していた。その後は品種改良が進んだ結果、収穫量が増加してきた。

 

  裏作に関しても良田と、そうでない田があった。これは堀との位置に関係があった。堀に近い田ん中は稲作が終わった後、堀に排水できるので、裏作として麦を作ることができた。しかし、田の半分は排水できないため湿田(1年中水がたまっている)であった。現在は、トレンチャー(弾丸排水)を使って水を排水できるので、どの田でも麦が作れる。

 

・将来の日本の農業について

 これからの日本の農業はお先真っ暗。海外からは安い農畜産物が入ってくる。それに対して日本の農業は、農業機械は高いうえにそう何年ももつものではないのでいちいち買いかえていたら儲けも少ない。若い人も農業はやらなくなってしまった。というようなことを話して頂きました。

 

野中正史さん 昭和5年生



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