【神埼郡千代田町下神代地区】

S1−16 944813 工藤 美樹

S1−16 944828 柴田 智子

 

 初め、地図の見方がまるで分からなかったので、冠者神社の前の店の方に尋ねて、千歳郵便局が現在、(最近かわったらしい)もらった地図とは異なる場所にあることが分かりました。そこで、下神代と崎村の境界がどの辺りかということも聞き、ひとまず、その境となる道(そのままずっと行くと下村湖人の生家に着く)に行ってみました。その道沿いに神崎郡の派出所があったので、こので、境界がどの辺りかを聞いてみました。派出所の井手小百合さん(31才)は、まだ、こちらに来て間もないため、よく分からなかったので、近所の樋口輝夫さん(62才)を紹介して下さいました。この方は、崎村の方でしたが、大変親切で、私たちが下神代について調べていると分かると、区長の速水万太郎さん(65才)の家まで連れていって下さいました。そして、その後、区長さんの家で樋口さんと区長さん2人で整備前の古い地図(明治21年に描かれたもののコピー)と照らし合わせながら、いろいろと教えて下さいました。

下神代は大きくわけて五本松、膳ノ内、杉ノ内そして少しですが、四本松と、上神代の方のとび地である飯田にわけられるということ、区長さんの家の整備前の田の名がながおさ(100mくらい長かったから)やしただであったこと、はちまんぼりと呼んでいたこと、登り田、やぶぞり、きたばるであった場所などをお聞きしました。大きい区分は分かったので、後は個人個人に昔持っていた田の俗名を聞くことにしました。全然分からなかったので、少し古びた農家じゃないかと思われる家を手当たりしだいあたってみました。農家じゃない家の方や、田んぼの名を知らないという方には、この辺りの年をとっている人や、昔から、この地域で百姓をしている人を知っているかどうか尋ねてまわりました。そして、県道沿いでお菓子屋をしている今村ヒトヨさん(63才)にお話しをうかがうことができました。ここで、昔、今村さんの家の田であった西田であるくせだ、ひくめだ、いったんふたせ、五反、みぞのうち、と西福寺近くの田が、がたと呼ばれていたことなどが分かりました。そして、実松さんという議長をしていらっしゃる人がもの知りだと聞いたので、県道沿いの道を上神代の方へ進みました。その途中で、年配の方かなと思われる人がいたので、その人、東郷シヅエさん(80才)にお聞きしました。百姓をやめてしばらくたっている人だったので、この人からははっきりとしたことは聞けませんでした。実松さんの家に行ってみたけれど留守でした。実松さんの隣の永原さんも昔からの百姓だと聞いていたので、行ってみたけど留守で、また、その隣の牛を飼っている永原さん家に行くと、永原フエさん(75才)がいらっしゃいました。しかし、この人から新しいことは何もお聞きできませんでしたが、今まで聞いたことの確認ができました。そしてその後、上神代付近で田んぼに囲まれている永原さん家に行って、永原菊次さん(83才)に、自宅の前の田んぼをねぎだれ、横の田んぼをみぞのうちと呼んでいたこと、膳ノ内の中の田んぼの呼び方、ひらきのたんなか、ふるしろ、きたまえ、上神代にある上神代のきたまえ、丁太の地などを教えていただきました。この時もうすでに時間があまりなかったけど、もう少しがんばってみようということになって、また、議長の実松さん家に行ってみましたが、やはり留守でした。そして、前行こうとしたとき、ちょうど出かけてしまった家があったので、そこをもう一度訪れました。近所の方から、もう話がいっていたらしく、片江嘉人さん(74才)はすぐに、昔、自分の田だったほばしら、かぎだ、にしだ、もう1つのがたなどを教えて下さいました。すごくやさしいおじいちゃんで、もう、あまり時間がなく他のことはほとんどお話できなくて残念でした。いろいろと人に出会えたし、やさしい人たちばかりだったので、楽しかったです。はっきりいって時間が足りませんでした。水路のことについて、調べる時間がなかったけど、1つ気付いたことがありました。それは、区長さんの家で見せてもらった地図と、私たちの持っていた地図の水路、ため池等の太さや大きさが全然違っていたことです。昔のでは、それらは大きかったし、また、昔存在した水路がなくなっていたりしていたことが分かりました。また、下神代は大字渡瀬とも言うそうです。(終わり)



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