【神崎郡千代田町林慶地区】

歴史と異文化理解Aレポート

944857 波多野 吏

944858 林 裕己

 

(1)しこ名

 この村の田にはあまりしこ名がついていませんでした。おそらく、村が小さいためつける必要があまりなかったのだと思います。事実、水路や水門にはついていたものの、家、道などにはついていませんでした。となりの村などはつけていたそうです。

〜しこ名〜

・奥(おっぷ)…村の奥の方にある田ん中だからこうついたそうです。

・宮前(みやまえ)…お寺の前にあったのでこうついたそうです。

・従是(じゅうぜ)…由来はわかりません。

・葦野(よしの)…あしが多くはえていたそうです。

・墓原(はかわら)…はかが近くにあったそうですが、今ではみあたりません。移動したのでしょうか。

・中津江川…由来はわかりません。

・さきの水門…さき村にある水門。

・中津の水門…中津江川に入る水門。

 

(2)水源調査

 この村は今でも淡水取水をやっているそうです。田出川と筑後川との合流点に水門があり、(そこの水門をさき水門というそうです)麦刈りのすんだすぐ後から淡水を田手川に引き込み、田手川の現本流と旧本流の合流点にある水門(中津の水門)から淡水を取水しているそうです。しかし、会社が多くつくられたせいで昔の水路(中津江川)がうめたてられ、淡水はうめられたパイプを通っているそうです。

 ちなみに田手川の現本流はS28年に工事で人工的につくられたもので、今ある水門もそのとき新しく作りなおされたもの、つまり昔は少し位置がちがったのではないかと思われます。旧本流は流れが強かったそうで、古い護岸工事の跡がありました。

 現在、北茂安、豆津橋のあたりに大きな水門を作りそこから農家に水をまわすという計画があるそうです。しかし、そういった工事をすると、今まではもらい水でただだったものが、有料になり農家にとって負担となるので、みな反対しているそうです。

 水利に関しては、このあたりは低い土地で、水が豊かなため、水争いはなかったそうです。雨がふるより、少し日がてった方が米のできは良かったそうで、昨年の大旱魃でも、水争いが少しあったり、淡水取水も塩分濃度をはかりながらやったりと、多少の苦労はあったようですが、豊作だったそうです。

 

(3)収量

 この村では昔から、米が良くとれたらしく良田やあまりとれない田などという格差はなかったようです。昔は一反8俵、今は一反10俵、豊作となると2俵ぐらい増したようです。昭和30年代に何度か日本一になったころもあるそうです。ほとんどの田で、麦との二毛作も行っているそうです。

 

(4)問題点

 今のところ大きな問題点としては、先にあげたように水門の問題、米の自由化によって米が安くなるという危惧。農業に携わる人の高齢化と、後継者の不足などといっていました。

 

(5)反省点

 一番大きな反省点としては、やはり事前に区長の所に連絡をいれてなかったことです。その日、葬式があったため、区長をつかまえることができず、ずいぶん無駄な時間をすごし、また区長ならびに近所の方に多大な迷惑をかけてしまったと思います。次から気をつけることにしましょう。

 

協力

区長  石井 溢治さん S元年生

    中本 正隆さん S4年生

他2名。



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