【神埼郡千代田町乙南里地区】 940116 中司 裕美 940117 中島あゆみ ○地図に記入されたしこ名の由来 @すきざき……農具の鋤で土をかいた跡のとんがった形に似ているため。 Aまうら……川原勇氏宅に真裏にあるため。 Bどじょうぼり……ドジョウがたくさんいたため。 Cじゅうじょうざかい……十条との境だから。 Dのぼいみち(ぬぼいみ)…“登り道”がなまったもの。また、その周囲の田ん中も同様に呼ばれた。 Eこうじろのみち(にしんみち)…西の人から見て、この道は神代(こうじろ)に続く道だったので「こうじろのみち」と呼ばれた。東の人から見ると、この道は西に向かう道だったので「にしんみち」と呼ばれた。周囲の田も同様に呼ばれた。 Fけえつぐろう…「かいつぶり」がなまったもの。この田はよく水没した。その様がかいつぶり(水にもぐって魚を捕る鳥)によく似ていたため。 Gちゃでんばたけ…昔は茶畑だった。 Hしんぼい…「新堀」がなまったもの。新堀といっても、この堀は江戸時代につくられたらしい。周囲の田も同様に呼ばれた。 Iテーラ……堤防があったためらしい。 Jなごうた(なごうさ)……田が長かったから。その中でも「東んなごうさ」「西んなごうさ」と呼ばれていた。 Kたぬきいび……いびはなかったらしいが、なぜかそう呼ばれた。 Lなおとりさかい……直鳥との境だから。 ○村の水利について ・水源は城原川であった。「おみずいび」より水を取り入れた。「おみずいび(御水井樋)」は、蓮池の殿様の田に水を取り入れるために設けたものであり、その水路は御水川と呼ばれた。おみずいびは他のいびより取り入れ口の大きさが倍あって、干ばつの時は他のいびを閉めておみずいびからだけの取水が認められた。乙南里の村はこの水路の水を利用できたために水に苦労することはなく、そのため大きな堀が見られない。ところが明治以降、殿様がいなくなったので水で苦労することになった。 ・乙南里のうち、県道より西の地域は戦時中に高田(こうた)水利組合に加入し、水を確保したが、東側は他の村から孤立しており、水不足に陥ることが度々あった。そんな時は、城原川の上流の井堰を閉め、おみずいびから水を取り入れるという、いわば水泥棒を真夜中に度々働いたらしい。上流の村の井堰番にみつかって、しばかれたこともあったそうだ。これは昭和40年代ぐらいまで行われたらしい。そのほかには、どじょうぼりからポンプで汲み上げた水を、土管を設けて東側に流した。(今は道路の下にある)が、水はあまり十分ではなかった。 ・あおかんがいは、この地区では全く行っていなかった。もっと南の地区(たくた、にとりい、おおあだ)では行われていた。 ・ある古老の話では、昭和14年の大干ばつの後、お金をつんで高田水利組合に入り、水をポンプアップしてもらったらしい。(S18年頃) 圃場整備後は水路がつながったので、水には困らない。今ではおみずいびもあてにされておらず、城原川の水も水門まで来ない。かつては、水神が祀られているこのいびで雨乞いが行われた。 ・またある古老の話では、きたうらの水の取り入れ口から水を取り入れたこともあったらしい。 ○田ん中について ・場所によって収穫高の差はない(一反あたり10俵前後)が、昔は干ばつの際は県道の東ではあまり米がとれなかった。 ・圃場整備前は、だいたい今とかわらないが、品種によれば『うるち米十石』などは一反あたり11〜12俵とれたらしい。ただしこの頃は、一反は正確に測られておらず、一反ひとせくらい(1割増し)だった。化学肥料を使う前は、一反あたり6〜8俵とれていた。肥料としては、堆肥、クリークの泥土、大豆のかす、小魚の粉末などを用いた。化学肥料は、窒素リン酸カリ(それぞれ16%)を一反あたり常に80〜100kgを5回に分けてまいた。窒素過多で稲が倒れることもあったが、今は農協の指導によってそういうこともなくなった。(コンバインを使用するので、生産者の方も稲が倒れないよう努力した。) ・乙南里の村では、圃場整備後はどの田でも裏作ができる。圃場整備前は、神代の田はほとんど裏作ができた。全体では3分の2くらいが裏作可能だった。(個人で持っている田によって乾田と湿田の比率が異なっていたので、差があった。) ○地図作成について ・しこ名は人によって多少重なる地域もあったが、場所的にはほとんど一致していた。「昔はしこ名がたくさんあったけんが、10年も前のことやけん、もう忘れたもんね。使わんし。」という人が多かった。一番詳しいと紹介された人のところに訪ねて行ったら、「圃場整備したけん、関係なかろーもん」とのことだった。ちなみに、区長は新年ゴルフで不在だった。区長の話も聞きたかったので残念だった。 ○お話をしてくださった方々の名前と生年(敬称略) 西村葏(しげる) T2 江口初男 S20 川原勇 T7 西村初実 S21 西村誠 S4 西村昭平(部落体育部長)さんの奥さんが色々紹介してくださいました。 →本人は不在。 乙南里のほとんどのお宅に伺いましたが、不在だったり、「農業をやっていない」ということで話を聞くことができなかったりしました。 |